三 八重に似た上女中

「やえ・・・」

 女の顔を見る菊之助の目に涙が溢れた。女の顔はあまりにも八重に似ていた。

「旦那様・・・」

 直吉は女を見つめたままの菊之助に声をかけて、菊之助の膝に手を触れた。無理もない、これほど、亡くなった奥様に似ていれば、私とて勘違いする・・・。

 菊之助は我に返ったように懐から懐紙を取りだして涙を拭き、声を詰らせた。

「この方があまりに亡くなった女房に似ているもので・・・」

 女は与三郎の女房や妾には思えない。菊之助は、女が女中ならぜひとも女を譲って欲しいと思った。

「こちらは山王屋さんの奥様ですか」

 直吉は、女の事を尋ねようとしている菊之助に代って、そう尋ねた。

「いえいえ、私どもの上女中でございます。おもに私の身のまわりの世話をさせております。伽こそしませんが、私の女房と言ったところでしょうか・・・」

 山王屋与三郎はそう言って女を見た。

 与三郎の言葉に、女はぽっと頬を赤く染めてまなざしを畳へ向けた。


 この仕草は私の元に嫁いだ頃の八重そのものだ・・・。

 このまま帰ってなるものか・・・・。 

 今、八重と瓜二つの女中が目の前にいる。この場に及んで、八重の似顔絵に似た女中の斡旋を頼んで立ち去るなど、菊之助はできなくなった。

「山王屋さん。ぶしつけをお許しいただき、お尋ねしたいと思います。

 この方は、何と言う名でしょうか」

 菊之助はもう呉服問屋加賀屋の主などと気どっていられなかった。心は八重を見初めた頃に戻っていた。

「名は多惠です。私どもで上女中をするようになって、かれこれ一ヶ月になります。

 多惠の実家は武家でございましたが、昨今の天下普請の賂事件に巻きこまれまして・・・」

 与三郎はそこまで話して口を閉じた。あとは推測に任せると言いたいのだ。

 天下普請の仕事の斡旋を巡り、江戸市中に賂事件が頻発していた。呉服問屋の加賀屋は天下普請に関係していなかったが、菊之助はそうした事件を耳にしていた。菊之助は多惠の身に降りかかった不幸を察した。

「誠に厚かましいお願いですが、ぜひとも、お多惠さんに、私どもの御店で働いてもらいたいのです。山王屋さんの上女中ですので、ご迷惑は重々承知しております。

 この通りです」

 菊之助はその場で与三郎と多惠に深々と頭を下げた。


「加賀屋様、頭をお上げくださいまし。

 お多惠がここに居るのを、加賀屋さんはどうお考えですか」

 与三郎は菊之助を見て笑っている。

「どういうことでしょうか」

 菊之助は与三郎が何を言いたいか、わからなかった。

 菊之助の橫で直吉が苛々しながら菊之助に代って口を開いた。

「誠に申し訳ございません。加賀屋菊之助は、お多惠さんを加賀屋の上女中にしたいと思うております。

 もう、私はじれったくて、見ておられませぬ。

 山王屋さん。いかがなものでしょう」

 大番頭の直吉は山王屋与三郎を睨みつけた。


「もう一度お尋ねます。

 お多惠がここに居るのを、加賀屋さんはどうお思いですか」

 与三郎はじっと菊之助を見た。多惠も顔を上げて菊之助を見ている。

「それは・・・、もしやして、顔合せか・・・」

 多惠は山王屋の上女中だ。まさかそんな事はあるまいと菊之助は思った。

「多惠は私ども山王屋に無くてはならぬ上女中にございます。

 しかしながら、加賀屋さんが多惠を見初め、多惠も加賀屋さんに好意を寄せるのであれば、私どもも、否とは言いますまい。

 ですが、今日明日からと言われましても、私どもから多惠がいなくなりますと、御店に関わらず、私の日常にも支障をきたします」

 与三郎は多惠を見た。多惠は笑顔で菊之助を見つめている。

「ごもっともな話です・・・」

 菊之助は多惠をチラチラ見ながら与三郎にそう答えた。

「多惠は、加賀屋さんにお仕えしたいと思うか」

 与三郎は優しく多惠にそう訊いた。

「はい、加賀屋さんさえよければ、ぜひに・・・」

 多惠はそう言って頬を赤く染めた。

「では、多惠に代る上女中が見つかりましたら、その時、多惠を加賀屋さんへさし向けます。その時は、私ともども加賀屋さんに伺いますゆえ、よろしくお願いいたします。

 多惠の仕度にかかりますお足は、その時に・・・」

 与三郎は多惠とともに、その場で畳に手をつき、菊之助と大番頭の直吉に深々と頭を下げた。

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