四 驚き
皐月(五月)下旬、晴れのその日の午前。
菊之助は帳場机の前に座ったかと思うと、すぐに立ちあがって店の客の前に座り、また、
立ちあがって店の入口に目をやり、帳場机の前に戻った。
そして、また立ちあがって店の中を歩きまわり、そのあいまに店の入口へ目をやり、暖簾の間から現れる客の顔を見て溜息をついている。
朝から店をうろつきまわる主の菊之助を見て、奉公人と下女中たちは日頃の働きを注意されるのかと思って畏まっていたが、時が過ぎるにつれて、菊之助が誰かを待っているらしいのがわかって安堵し、主の希有な立ち居振舞に笑いをこらえた。
「これ、番頭さん。奉公人たちを静かにさせなさい」
大番頭の直吉は番頭の平助を呼んで言い含めた。
「そう言っても、あれを見てください。とても、今までの旦那様とは思えません。
旦那様は、誰かを待っておいでですか」
番頭の平助は、大番頭の直吉なら主がそわそわしている訳を知っていると思い、確かめるように大番頭の直吉の顔を見た。
「余計なことを考えずに、奉公人たちに御店の拭き掃除をさせなさい」
直吉は顔色を読まれぬよう番頭の平助に言いつけた。
「御店が開く前にしっかり拭き掃除しました。もう一度するのですか」
番頭の平助は、聞き違えたのではないかと大番頭の直吉に確認した。
「そうです。今日は良い天気ですから、店先の塵や埃が御店に入って、呉服が汚れます。塵や埃が風で舞わぬように、水も撒きなさい」
大番頭の直吉の話に、もっともだと平助は思った。
「はい、わかりました。これっお加代っ。外に水を撒きなさいっ」
平助は下女中を呼んで仕事を言いつけた。
店の畳を拭いていた下女中のお加代は、急に他の仕事を言いつけられて、頬を膨らまして不平顔だ。
「私もいっしょに水を撒くから、そんな顔をするな」
平助はお加代をなだめた。
「平助さんがそう言うなら、いっしょに水を撒くよ」
一瞬に、膨れていたお加代の顔が笑顔に変った。
平助とお加代は、店先の橫から奥へ続く土間を通って、井戸から桶に水を汲み、店先の通りに立った。
皐月下旬の晴れた午前は、風も穏やかで、陽射しはさほど強くない。
ここ日本橋呉服町の呉服問屋加賀屋の前の通りは、呉服を買い求める呉服屋や一般客で人が溢れていた。店先の通行人をよけながら、お加代と平助は柄杓で桶の水を撒いた。
すると、目の前に二人連れが立ち止ったまま歩こうとしない。
平助とお加代は顔を上げて二人を見た。
「あっ・・・・」
と言ったまま、二人は言葉を失った。
加賀屋の前で足を止めた二人連れは、口入れ屋の山王屋の与三郎と多惠だった。
多惠の容姿は菊之助の女房の八重に生き写しだ。その多惠が、店のお内儀風の装いで加賀屋の前に佇んでいる。一瞬にして、下女中のお加代は、あの優しい八重に見つめられているような気持ちになった。
「奥様・・・」
加代の目に涙が溢れた。
「私は山王屋与三郎でございます。
加賀屋様からお頼みされていた上女中を連れて参りました。
加賀屋菊之助様にお取り次ぎくださいまし」
与三郎は同伴した多惠とともに、平助と加代に深々と頭を下げた。
番頭の平助は大番頭の直吉からそれとなく、上女中が来る、と聞いていたが、これほど八重に似た人が来るとは思ってもいなかった。
「ささ、こちらへ。
お加代。手桶を片づけて、奥の座敷へ、茶菓を頼みますよ。
ささ、中へどうぞ・・・」
平助は山王屋与三郎と多惠を加賀屋へ案内した。
「旦那様!奥様が・・・」
そこまで話した番頭の平助は、店の奉公人の目がいっせいに多惠に注がれるのを感じた。みなが多惠の姿に言葉を無くしている。
「これ、言葉を慎みなさい。
本日は良くおいでくださいました。さあ、奥へどうぞ・・・」
大番頭の直吉は、多惠と与三郎を店の左手にある奉公人用の入口から中へ招き、主の住居になっている奥へと二人を案内した。
奥座敷で、多惠と与三郎の挨拶がすんだ。下女中のお加代が二人の前に茶菓が運んで、その場を去った。
お加代が去ると、与三郎は書き付けを大番頭の直吉に渡した。大番頭の直吉はその書き付け菊之助に渡し、菊之助は書き付けの内容を確認して直吉に、
「お足をさしあげてください」
と言った。
直吉は書き付けを持ったままその場を去って、すぐさま紙包みを載せたお盆を持って戻り、お盆を菊之助の前に置いた。
「これをお納めくださいまし」
菊之助は、すっとお盆を山王屋与三郎の前へ押した。
「では、確認させていただきます・・・」
与三郎は紙包みを手に取って中を確認して紙包みを巾着袋に入れ、懐から受け取りの証文を取りだしてお盆に載せて、菊之助の前へそっとお盆を押した。
菊之助は証文を手に取って確認し、直吉に渡した。
証文を見て大番頭の直吉が頷くと、
「私どもの仕事はこれにて終りにございます。
今後も末永く、多惠をよろしくお願いいたします」
与三郎は多惠とともに深々とお辞儀した。
菊之助が返礼して、親しみをこめて与三郎に言う。
「こちらこそ、無理なお願いを聞いていただき、ありがとうございました。
四ツ半(午前十一時)も過ぎましたので、昼餉をともにいかがですか」
「ありがたいお言葉ですが、私も次の仕事がありますゆえ、これにて失礼いたします」
山王屋与三郎は多惠に、しっかり働いてくださいよ、と言ってその場を立った。
「では、御店の外までお見送りいたしましょう」
菊之助は立ちあがった。
菊之助を見た与三郎は慌てて菊之助を制した。
「とんでもございません。加賀屋様はここで多惠に仕事の事などお教えくださいまし。
では、加賀屋様、大番頭様、これにて失礼します」
「直吉。送ってさしあげなさい。私は多惠さんに仕事の事を話しますゆえ・・・」
「では、失礼いたします」
山王屋与三郎と大番頭の直吉は奥座敷から去っていった。
奥座敷は菊之助と多惠の二人になった。
「よくおいでくださいました。
今日からここがお多惠さんの家だと思って、私の身のまわりの世話をお願いします」
菊之助は目の前に正座している多惠に頭を下げた。
「旦那様。顔をお上げくださいまし。
私は旦那様に使える上女中にございます。なんなりとお申しつけくださいまし。
旦那様の言いつけとあらば、お伽もいたします。
ですが、私を旦那様の慰みものになさるのであれば、どうかご容赦くださいまし。
私とて独り身の女。我が身を持て余す日もございます。
しかしながら、それだけで、お伽に応じとうはございませぬ。
どうか、私の心を見定めた上で、私に末永いお情けをおかけくださいまし」
多惠は目を潤ませて菊之助の前に深々とひれ伏した。
多惠の言葉は菊之助の心に染みた。菊之助は多惠から、加賀屋の主の菊之助の後添いか、あるいは妾になるから、そのつもりで情けをかけて欲しいと宣言されたのである。
菊之助は、多惠の潔さに、町屋の女と違って武家の女だけのことはあると感激した。
「よく話してくださった。私はね、お前を一目見た時から、お前の虜なのだよ。
わかりました。じっくり時をかけて、お互いをよく知りあいましょう。
最初は私の身のまわりの世話をしてもらいましょう。臥所は私の隣の部屋を使ってください」
菊之助は奥座敷から襖一枚を隔てた隣の座敷を示した。
「安心なさい。お前が納得するまで、お前に触れませんよ」
生前の八重の求めに応じ、菊之助は、毎夜、睦事を重ねていた。
八重が他界した原因は毎夜の睦事にあったのではないかと懸念する菊之助は、多惠が求めぬ限り、多惠を抱いてはならぬと心から思っていた。
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