一 下女と愛しの女房
皐月(五月)初旬。
日本橋呉服町の呉服問屋加賀屋の主の菊之助は女房の八重を亡くして一ヶ月が経った。
菊之助は八重が亡くなって悲しかった。それでも、なんとかなると思っていたが、これが如何ともしがたい。八重を亡くした悲しみは心にポッカリ穴が空いたみたいで、どうやって埋めていいか見当もつかない。吉原まで足を延ばしてみたものの、花魁で満足するはずもない。千住の宿場女郎にいたっては言葉もない。無理はない。みな、菊之助の女房ではないのだから・・・。
菊之助は何かにつけて亡くなった女房の八重を思いだした。
いい女房だった。身も心も八重に勝るものはいない・・・。
帳場机の前に座った菊之助は店で働く女中たちを見た。
この女中たちは何だ。炊事、掃除、洗濯、全てが女房の八重に劣っている。容姿は言うまでもない。才も情緒も八重とは雲泥の差だ・・・。
「はあぁぁ・・・・」
店で甲斐甲斐しく働く女中たちを見て、菊之助は帳場机で溜息をついた。
「旦那様。奥様が亡くなって一ヶ月。後添いをもらうにはまだ早すぎます。
かといって、あれだけの器量の奧様でしたから、旦那様の気持ちは良くわかります。
近頃、巷では美人で才女の・・・・」
大番頭の直吉は最近の口入れ屋を説明した。
口入れ屋は、雇用主に雇用を求める人材を斡旋して手間賃をもらう事を生業にしている。
昨今、江戸市中では、口入れ屋が美人の才ある女中を商家に斡旋していると噂になっている。奉公に上がった女中たちは主に見初められて妾になったり、女房を亡くした主の後添いになったりしていると聞く。
「旦那様も、一度、口入れ屋に足を運んでみてはいかがですか」
直吉はいたって真面目に菊之助に話した。
菊之助は女房の八重が亡くなってからの一ヶ月がとてつもなく長く感じた。
八重は昼も夜も働き過ぎた。夜は八重の求めに応じて私が睦事の相手をし過ぎた。睦事も毎日でなく、せめて二日に一度、いや三日に一度にすれば、八重の寿命は三倍に延びていたかも知れない・・・。
そう思う菊之助は女房の八重を思いだしてしんみりした顔になって俯いた。
「旦那様、旦那様・・・、だいじょうぶですか・・・」
直吉の問いかけに、菊之助は顔をあげた。
「ああ、だいじょうぶだ・・・。八重を思っておった・・・。
八重は昼も夜も、尽してくれた・・・。
日々の伽を・・・」
「奥様は美しく才がありました。それは、それは、私たち奉公人に良くしてくれました。
奥様に代る人がいるとは思えませんが、ここにいて女中たちを見ていても、旦那様の気が休まるとも、奥様に代る人が現れるとも思えません。
人捜しと思って、旦那様の求める女中を口入れ屋に頼んではいかがですか。
ここはひとまず、これを・・・」
大番頭の直吉は持っているお茶の茶碗が載ったお盆を畳に置いて、すっと菊之助の帳場机の橫へ滑らせた。そして、懐から書きつけを出して、そっと帳場机に置いた。
お茶の茶碗を手に取り、菊之助は直吉が帳場机に載せた書きつけを見た。そこには、
『千住大橋南詰め中村町、口入れの山王屋』とある。
「これは?」
菊之助は不審な顔つきで大番頭の直吉を見つめた。
「美人で才女の女中を斡旋すると評判の口入れ屋です」
「そうか・・・」
菊之助は気の無さそうな返事と素振りだった。
だが、菊之助の心に小さな希望の明りが灯るのを、直吉は見逃さなかった。
「旦那様に無断で申し訳ありませんでした。
私は旦那様の悩みを見ていられなかったものですから・・・」
「そうか・・・。私を気遣ってくれたか・・・」
菊之助は手にしている茶碗を口へ運んだ。大番頭の直吉は私の心を読んでいたか・・・。
「いずれ、日本橋呉服町の呉服問屋加賀屋菊之助が挨拶に伺うと伝えてあります。
直吉のこの行い、旦那様の容態を気遣っての事です。
どうか平にご容赦くださいまし」
大番頭の直吉は店の奉公人たちがいるのも気にせず、菊之助の帳場机の前に深々とひれ伏した。
菊之助と大番頭の直吉の話は小声だった。内容は奉公人たちに聞えていなかったが、大番頭の直吉が菊之助の前にひれ伏すと、奉公人たちの目がいっせいに菊之助と大番頭の直吉に向けられた。
「これ、顔を上げなさい。そんなに畏まる事ではありませんよ。
気にしなくていいですよ。
私はね、そこまで私を案じてくれる大番頭のお前を誇りに思いますよ」
菊之助は奉公人たちに聞えるようにそう話した。
「では、この事、考えていただけますね。
考えていただけねば、思い悩む旦那様は仕事もままならぬと言うもの・・・」
「わかりました。考えましょう。ありがとうよ。直吉」
菊之助は大番頭の直吉に深々と頭を下げた。
「とんでもありません。旦那様のほうこそ、頭をお上げくださいまし・・・」
大番頭の直吉は主に頭を下げられて困り果てた。
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