第13話 傘
メアリーさんの様子がおかしい。
アリサ曰くそうらしい。ここ最近あのダエルと言う男は相変わらずの仏頂面を掲げて店に現れてくる。アリサの機嫌はすこぶる悪くなる一方だが、メアリーさんはそうではない。
「見て……イヤリングまで着けてる……」
そう言われてみれば、確かにメアリーさんの両耳には小さく輝く宝石が垂れていた。装飾品をつけている姿なんて見たことがない。何かがおかしい。その通りなのかもしれない。
「鼻歌まで歌っちゃってさ……」
厨房で忙しく振る舞うメアリーさんは鼻歌を歌っていた。
「ママってあの人のこと好きなの?」
「えっ!? あ、あの人!? だ、誰のことかしら……」
「ママ……とぼけるの下手すぎ……」
「え、えー? そうかなー?」
「……で、どうなの?」
「い、いやあ? メアリーさんは何も知らないなー?」
「……」
アリサは諦めずに何度かメアリーさんを問いただそうとしていたが、メアリーさんは一向に答えを濁すのを見て、私にまで文句を垂れ流していた。
「ヘレンも気にならないの!?」
「いや、全然」
「なんで!?」
「あの大男もメアリーさんに危害を加えようとしているわけじゃないんだ。メアリーさんが上機嫌になっていくなら、心配することは何もないだろう」
「……そうだけど、そうじゃないじゃん! もー!」
「……アリサ、強く拭きすぎじゃないか? もう布巾が破れそうだぞ?」
「……」
文句を言い続けながらも開店準備をしっかりこなすアリサ。その手にあった布巾は先ほどから一つの机に長い間擦り付けられていた。
「おい! アリサ! オレが帰ったぞ! 歓迎しろ!」
まだ開店してもいない店の扉を開けたのは、王都の学園に行っているはずのフィルだった。
「……」
「ど、どうしたんだ?」
帰ってくるタイミングが悪かったなとフィルに同情する。アリサはボロボロになったただの布を片手に暗い表情でフィルに近づいていく。満面の笑みを浮かべていたはずのフィルは、今度は顔をひくつかせながら、近づいてくるアリサに合わせて、一歩ずつ後ろに下がる。
「フィル……?」
「お、おう。フィ、フィルだぞ……?」
「……」
「オ、オレ帰ってきたばかりだぞ? まだ何もしてないぞ?」
「……」
「アリサ?」
「……よく帰ってきたわね」
「へ?」
「ほら、これ持って」
「……」
「フィル今日暇?」
「……う、うん?」
「じゃあアセビの手伝いしてね。アリサ、ちょうどやることあるから。ヘレン、ママに言っといて」
ボロ布巾とエプロンをフィルに押しつけたアリサはそのまま店を出て行ってしまった。
「な、なんか怒ってるのか、あいつ?」
もちろんあの大男のせいというのもあるが、フィルが帰ってきたというのも一つの理由なのだろう。自分に何も言わずに学園に通い始めたフィルへの文句も沢山聞いてきたものだ。なかなか自分を遊びに誘いにきてくれないフィルの家を訪ねると、いきなりそう告げられた。あの時のアリサは間違いなく涙目だった。この街にはそもそも子どもが少ない。アリサと似た年齢の仲の良い子どもはフィルだけだったのだ。それをある日突然失ったものだから相当ショックを受けたのだろう。
「その辺の机はまだ拭いていない。手伝うなら早くしてくれ。もうすぐ開店時間なんだ」
「なんだよ! お前なんかに言われなくてもわかってるよ!」
フィルからの敵意はこの数年で薄くなるどころか濃くなっていく一方だった。いきなりアリサたちの周りに現れた怪しいやつだというのは承知の上だが、六年も経っているのだからいくらかは慣れて欲しいものだ。
「アリサー! お醤油が無くなっちゃいそうだから買ってきてもらえないかしら?」
厨房から顔を覗かせたメアリーさんは不思議そうな顔をする。
「あら、アリサは? って! あれ? フィルくん? あらあら! フィルくんじゃない! おかえり! 学園楽しかったかしら!」
「こんにちはっす! お久しぶりです! 学園ではうまくやってるっす! アリサならさっきどっか行きましたよ」
フィルにしては随分と丁寧な挨拶をするようになったものだと感心する。私たちの前での乱暴なフィルは何故かメアリーさんの前だけ大人しくなる。他の大人の前でもこうはならなく、本当にメアリーさんの前だけである。
「どこに出かけたかわかるかしら?」
「あまり遠くには出かけないはずだ。私が探しにいくよ」
「いいわ。ヘレン。わざわざ探さなくても平気よ。アリサももう大きくなったもの」
「でも醤油は買わないといけないだろ?」
「はっ! 確かに。じゃあお願いするわ! でも遅くはならないでね。開店前までには戻ってきてちょうだい。フィル一人じゃ大変だわ」
「わかった」
メアリーさんから財布とかごを受け取り、店を出る。果たしてアリサが一人でこなせる「やること」とはなんだろうか。大きくなったとは言ったものの、アリサの年齢はまだ子どもと世間では言われるほどだ。できることはかなり限られているはずだ。一体どこに行ったのだろう。
「わっ」
随分と情けない声を出した気がする。普段通りの街並みをただ進んでいたのに、急に引き止められたからだ。いや、引き止められたのではない。私が何かに引っかかったのだ。左にぶら下がったかごに引っかかったそれは灰色のクロークだった。しかも今まさに誰かが羽織っているそれだ。確かにこのかごは最近、随分と傷んできたかもしれない。何年も使い込んできたおかげで、ささくれが目立ってきている。メアリーさんが自らの手で編んだかごでなければ、とっくに買い替えているだろう。
「すみません」
昼間から頭までクロークで包んで、こんな通りを歩いている者だ。怪しい極まりないし、私はできるだけ誰かと関わりたくはなかった。さっさと謝って事を終わらせようとしたのに、クロークの下からは返事も何もない。このまま行ってしまっても良いだろうか。そう思って進み出そうとしたが、どうやら今度は本当に引き止められたようで、肩をぐっと掴まれた。
「あ、あの!」
焦っているような男の声音だった。
「……何か用があるのか?」
無理矢理引き止めた割には、なかなか要件を話さないため警戒した。クロークを深く被っているせいで顔は見えない。だが、ある一つのものが目に入ってきた。それはクロークの隙間から見える一本の長い傘だった。
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