第23話 セルシア
意識が朦朧とする中、私はある女が岸辺の大きな岩に座って、歌っているのが見えた。涼しい風が吹く半月の夜だ。彼女のことは知らないはずだが、私は知っていた。セルシアは長い金髪を靡かせて、私に歌いかけていた。彼女も私と同じような尾を持っている。セルシアは人魚だ。月明かりに照らされた髪はキラキラと輝いていて、とても美しかった。私の視線に気づいたのか、セルシアは自分の髪に触れながら笑いかけてきた。
「綺麗でしょ? 今日も彼が言ってくれたわ。世界で一番綺麗って!」
セルシアの微笑みはとても美しかった。この世で一番幸せそうに笑っていた。そしてセルシアの髪もその笑みにつられて、一層美しく輝いた気がした。私は不意に思った。昨日とは違う簪をセルシアはつけている。綺麗な宝石がセルシアが動きに合わせて、ゆらゆらと宙で舞う。
「簪? ああ、簪は全然売れなかったけど、いいもん。彼は私が全部つければいいって言ってくれたわ!」
セルシアはこうして話しかけてきては、歌い続けた。とても不思議な感覚だった。一度も会ったことないはずなのに、長い間こうしてきたような気もした。
瞼を閉じ、もう一度目を開けた瞬間、次の夜が訪れたことがわかった。セルシアは相変わらずあの岩にいた。今日も違う簪をつけていた。セルシアは毎日、あの曲を歌っている。人魚なら誰でも知っているあの子守唄だ。歌声は懐かしく、心地よい。そしてたまに、嬉しそうに話しかけてくる。こうして、幾つもの夜を過ごした。
「今日はね、彼と一緒に素敵な本を読んだの。物語の主人公は自分の夢を果たす代わりに死んでしまったけど、その結末には感動したわ。でも、現実に自分の夢のために命を捧げる人なんているのかしら? 彼もそう言っていたわ」
「ねえねえ! 聞いて聞いて! 二本も簪が売れたの! 吸い込まれるようなとっても綺麗な黒い髪をした女性と、燃えるような真っ赤な髪をした女の子よ! お母さんの誕生日にぴったりだと言ってくれて、笑ってくれたの! 彼も喜んでいたわ! 今日は本当に素晴らしい一日だったわ!」
「新しいお洋服を買ってもらったの! 私たちって、まあ、そこまで裕福じゃないでしょ? でも、彼はどうしても買うと言って聞かないの。あの服は私のために設計された服なんだって言っていたわ! ああ、ここに持ってくればよかったわ! 本当に見せてあげたいくらい綺麗なのよ!」
セルシアの話にはいつも「彼」が出てくる。「彼」は簪を作る職人で、セルシアの髪をとても大切にしていた。その美しい金髪の管理は全部その「彼」がやっているのだそう。洗うのも、梳くのも、簪をその髪に飾るのも、全部「彼」だ。先日セルシアが髪を木の枝に引っ掛けた時には、少し「彼」に怒られたのだそう。それでもセルシアは笑っていた。どんな宝物よりも大切に触れてくれるその手が大好きだと言うのだ。
「彼はね、髪に関するとちょっと神経質になるけど、それ以外ではすっごく優しいのよ! そうそう! この前、花畑に行ったら、綺麗な花冠を作ってくれたの! 簪を作る時の手はとても器用なのに、彼の作った花冠は……、秘密よ? 少し……うーん、どう言えばいいのかしら? まあ、とりあえずあんまり想像できないような形をしていたわ。でも私はとても嬉しかったの! 彼は少し申し訳なさそうにしちゃってね、今度の誕生日に私だけの簪を作ってくれると言ってくれたわ! 私の大好きな鈴蘭をモチーフにしてくれるって言うの! きっと素敵な簪になるわよね! 楽しみだわ!」
その日のセルシアは一番輝いていた。でも、それが最後の輝きであった。それ以降の彼女はだんだんとその輝きを失っていった。
この夜、セルシアもやっぱりあの歌を歌っていた。だが、だんだんと歌声は震えてきて、ついにはその真っ赤な瞳から涙をこぼした。
「か、彼がね、ひどい火傷をしてしまったの……彼は大丈夫だって言ってたけれど、顔も、手も、足も、全部真っ赤になっていて、とても痛そうだったわ。わ、私もあの場にいれたらよかったのに……」
セルシアがいない間に火事が起きてしまったのだそう。「彼」もすぐに逃げれば軽傷で済んだものの、簪のために再び火の海に飛び込んだ。しかもそれはあの鈴蘭の簪だ。まだ作りかけのものだったが、彼が握っていたそれを見て、セルシアはひどく罪悪感を感じたようだ。
セルシアはその一晩を泣いて過ごした。そして、それ以降、セルシアがここに来る回数が減った。私は瞬きをすれば、次にセルシアがここを訪れた夜が見えるけれど、はっきりとそうわかっていた。
セルシアはだんだんとあの曲を歌わなくなった。その代わり泣いては、ぽつりぽつりと話している。
「彼の火傷はやっぱりひどいみたいなの……特に右手は、今までのように使えないかも知れないの。彼はこっそり泣いていたわ。お医者様に見せようにもお金がないの……あんなに痛そうなのに、私、どうしたら……!」
「彼の簪を踏みつけた人がいたの……この世にそんな酷いことをする人がいるだなんて信じられないわ。彼もとても悲しんでいてね、今日あまりお話しもできなかったの……」
セルシアの話の「彼」の状態は悪化するばかりであった。
「あの人たちは人の心を持ち合わせていないんだわ! 今日は彼に殴り掛かろうとまでしたのよ! 火傷の痕が醜いだなんて、どうして言葉にできるのかしら! 彼はそんな痕があってもなくてもこの世で一番素敵な人なのよ!」
「……彼が部屋から出て来なくなってしまったの。全部あの人たちのせいだわ。どうしてこんなひどいことができるの! 彼は……彼はあんなにも優しい人なのに、どうしてこんな目に……!」
「今日はね、久しぶりに彼がドアを開けてくれたわ……ひどく痩せていたから、ご飯を食べて欲しかったけど、どうやら私には料理の才能がないようなの……。彼に怒鳴られてしまったわ……」
「やっぱり簪が売れないの……。どうしてかしら……どうしてこんな素敵な簪を買ってくれないの?」
「私、今日は真珠を売ってみたの……でも偽物だろって見向きもされなかったわ。みんなとの約束を破ってまで、持ってきた真珠なのに……」
「彼が血を吐いたの……苦しそうだったわ……私、どうすれば……」
セルシアは目に見えて、どんどん痩せ細っていき、目にも光を宿らなくなっていった。私はただ毎日そこで、黙って見ていることしかできなかった。
ある日突然セルシアはこう言った。
「あ、あのね! 隣のお金持ちのお嬢様が私の髪の毛を譲るなら、お医者様の紹介に、お薬もくださるって言うの! こ、これでやっと! ああ、やっぱり神様は慈悲深くて、全知全能なのね!」
少し元気を取り戻したセルシアは、嬉しそうな笑顔を作っていた。
次の瞬きで、セルシアの髪は短くなっていた。腰まであった長い長い金髪は、彼女の首元で切り揃えられていた。ついに「彼」に薬を買ってあげられたのかと思った。だが、セルシアの表情は見たことないくらいに醜く歪んでいた。 セルシアは悲しいと言うよりも憎しみの目でこちらを見ていたのだ。
「ねえ、どうして? どうして彼を連れてってしまうの? せっかくお金も薬も手に入れて……あと少しで幸せが戻ってきたのに! どうして!」
ある場面がふっと目の前を横切った。セルシアの言う「彼」は亡くなってしまった。セルシアが薬を買いに行く間に、「彼」は部屋を出た。そしてセルシアがいないことに気づき、重い体を引きずって街に出た先で、馬車に轢かれてしまった。地面に倒れて、動かなくなった彼の手には、完成した鈴蘭の簪が握りしめられていた。
セルシアはそれから何度も現れたが、歌も歌わず、話もせず、ただ浜辺でぶつぶつ何かを唱えていた。美しかった金髪はもうなかった。彼女はもう輝いていなく、ただただ醜くなっていた。
「わ、私、き、今日、ミロで見たわよ……! 噂は本当だったのね! あ、あんな恐ろしい死に方、私は絶対嫌よ! あ、あんな泡になって……! 私はもう陸にはいたくないわ! 彼ももういない! 私は泡になってしまうの!? 嫌よ! 私を海に帰して!」
セルシアはそう叫んだ。
私は知っていた。人魚は海の産物。聖なる海で生と死を迎えなければ、魂は溶けて、泡になってしまう。その痛みは想像を絶するもので、セルシアはそれを拒絶していた。そうならないためには、誰かに自分の魂を食べてもらうしかない。食べてもらった相手の魂との融合ができれば、泡になることは免れ、その人とともに普通の死を迎えることができる。だが、誰でもいいわけではない。自分の全てを受け入れてくれる人でないと、魂は一つにならない。そしてセルシアはその相手を失った。
セルシアは海の美しさよりも陸の誘惑を選んだ。それは罪深いことで、海はそれを許しはしない。二度と海には戻れない。人間と同じように海の呪いを受けるようになり、恐ろしい死が待っている。それが海の罰だ。だが、海は慈悲深く、全知全能で、少しわがまま。それはいつだって変わらない。
いいよぉ。
「え! ほ、本当に……!」
でも、ちょうだい?
「え?」
かみのけ。ずっといいなぁっておもってたんだぁ。
「わ、私の?」
あーんなにながくてぇ、きれいなの! あれがほしいなぁ。ねえ、セルシア。セルシアならどうすればいいか、わかるよね?
「……うん」
そうしてセルシアは次の瞬きで、真っ黒な髪の毛を捧げてきた。
「こ、これでいいよね!?」
えー? これじゃないよ、セルシア。
「ど、どうして? 長くて綺麗なのが欲しいって……」
だって、これ、ぜんぜんきれいじゃないよ?
「っ! 一体何が欲しいの!?」
わかんないの? セルシア。とびっきりきれいなのがほしいんだよ? しあわせになれるようなさぁ。
「わ、わかんない……」
じゃぁ、ぶっぶー! ふせいかーい! セルシア! たのしいね! まだまだいっしょにあそんでくれる?
「……」
うーん。じゃぁ、ボク、やさしいから、セルシアはあとごかい! ごかいのあいだでぇ、ボクがほしいものを、あてれたらセルシアのかちぃ。ボクがセルシアのねがい、かなえてあげるよ。でもぉ、あたらなかったら、セルシアのまけぇ。いいよね?
そうしてセルシアは今晩も髪を捧げてきた。
セルシア。ざんねんだよ。あとひとりだね! がんばってぇ!
「こ、これも違うの!?」
セルシア、ボク、もうねむくなっちゃった。セルシアがぁ、がんばって、うたをうたってぇ、そのひとたちつれてくるのはおもしろいけど、そのかみのけ、ぜんぜんきれいじゃないんだよねぇ。もしかして、ボクとセルシアってぇ、きがあわないのかなぁ。ねぇ、セルシア、このまま、まけちゃうのぉ?
「……っ!」
セルシア、そんなかおしないで? ほら、あといっかい、がんばってね!
そう言って、私の視界はまた闇に包まれた。
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