第4話 祝福
入り江には皆が集まっていた。母上も父上は私たちを見るなり、暖かい抱擁をくれた。
「ヘレンもカノンも立派になったな」
「本当そうですわ。あなたたちがこの日を迎えられるのをどれだけ楽しみにしていたのかわからないでしょう。二人がどんな選択をしようとも、あなたたちは私たちの宝物よ」
母上は涙ぐみながら、私とカノンにキスを落とす。母上に影響されたカノンも鼻を啜る。
「母様! カノンを今日まで育ててくれてありがとうございました! カノンは母親の期待に応えられるように今日、精一杯頑張ります!」
「おっほん」
「あ、もちろん父様もですよ! ありがとうございます!」
感動的な雰囲気に周りでも祝福の声が飛び交っていた。まるで私だけがのけ者にされているかのようだった。今の私にはそんな和やかな感情なんてなかった。焦りでどうにかなってしまいそうだった。一刻も早く儀式を開始して欲しい。祝福など後にして欲しい、と思う一方で、私はあの輪の中に入りたいとも思った。だが、気の利く言葉も感謝の言葉も口に出せなかった。私に言葉を誰も待っていないような気がしたからだ。あの三人だけで成り立っている世界に、私は入れそうになかったからだ。こんな日にまで汚い感情が芽生えるなんて、自分のことが情けない。
司祭が洞窟の奥から出てきた。私とカノンに準備するように言う。
「では、母様、父様。カノンは行って参ります」
「行ってらっしゃい。ヘレンとカノンの神楽を楽しみにしていますね」
「はい! 素晴らしい神楽を踊れるように、神様にしっかりお祈りしてきます!」
私は軽くお辞儀をすると、カノンとともに陸へ上がる。尾は足へと変わり、砂を踏む。慣れない感覚は恐怖心へと変わる。胸が熱い。鼓動が速い。心臓のあり方が嫌というほどわかる。全身を伝って流れる血を感じる。一歩進むごとに足の違和感が強くなる。だが痛いという感覚はとっくに掻き消された。先ほどの気持ちは恐怖心ではなかった。名前をつけるにはあまりにも馴染みがない気持ち。待ち望んだはずのこの時にこんなにも昂りを覚えるなんて思いもしなかった。
「では、ヘレン様。ご準備はいかがですか?」
司祭は柔らかい微笑みを浮かべて私に言う。準備はできた。覚悟もできた。もう何も怖くない。これさえ終われば私は生まれ変わる。全てが終わる。悩みに明け暮れる日などもう訪れなくなる。だからこの時の訪れを私は喜んでいるのだ。
昂る心に従って、肯定の言葉を出そうとした。だが、声が出なかった。何かが喉に引っかかている。取り出さないと。喉に触れようとして持ち上げた左手はやけに重い。いや、まるで自分のものでないような感覚だ。
「上様……手が……」
手? カノンの小さな囁きに私は手に視線を向ける。左手は震えていた。先ほどまで詰まっていた何かはどこかへ行き、私は呼吸を速める。どれだけ吸っても満足しない。ここが陸だからだろうか。いつもとは違う環境に緊張しているのだろうか。目の前が真っ暗になりそうだ。夜の小さな光を全て諦めてしまえば、今よりかは楽になれるかもしれない。でも私はやらなければいけない。これからの私は生まれ変わって、新たな人生を歩むのだから。
……なのに、どうして? 私はまだ決心できていないのか? もうカノンのために「男」になると決めたはずだろ? どうして今更こんな……こんな……。
「上様、大丈夫ですか?」
心配そうに覗き込んでくるカノンはいつもと同じだった。どこまでも純粋な私の片割れ。同じ顔とは思えないぐらいに輝いているカノン。ああ、羨ましい。どうしてそこまで輝いていられるのだろうか?
「司祭、どうかカノンの儀式を先に行えませんか?」
「え、ええ。順序が変わるくらいなら構わないですよ」
「ありがとうございます」
司祭と話していたカノンは再びこちらを向く。
「上様、大丈夫ですか? 落ち着いてくださいませ」
カノンは私の両手に指を絡めて、額を合わせた。自分以外の熱が伝わってくる。私の体温は低かったのだと自覚する。
「カノンと呼吸を合わせてください。ほら、図書館でやっていたようにゆっくり……吸って……吐いて……吸って……ゆっくり吐いて……」
カノンがよく図書館で言葉が出なくなっていた私にしていたことだ。ゆっくり呼吸を合わせていく。落ち着くとまではいかないが、絡まっていた思考は解けて、頭の中は真っ新になった。カノンがゆっくりと離れていく。
「大丈夫ですか? 上様はここで待ってください。カノンがこの洞窟がどんなものか見てきてやります! 上様の危害となるものは全てアヒルにしてやりますから! カノンが上様のために毒味してきます!」
少し胸を張って、そう私に言うカノンは司祭についていった。
情けない。
「私」が呟いた。私は同調するしかなかった。
お前が上様であると言うのに情けない。
いつまでも自分のこと考えているなんて情けない。カノンはあんなにも健気に私のことを心配しているのに、私はカノンのための「王子様」になることに躊躇いを感じるなんて情けない。
自分のことなどを隅に置いていればいいのに……。
こんなお前に「男」を選んだところで幸せなど訪れないだろう。
「私」に諭されていると、いつの間にかカノンは洞窟から出てきた。カノンは何も変わっていなかった。くるりとキトンを回し、カノンは「お姫様」がするカーテシーをする。カノンは「お姫様」になっていた。いや、元々「お姫様」だった。それが今、誰にも隠れず、皆に認められて明るみに出ただけだった。
入り江にいる皆は拍手をしていた。いつまでも続くような拍手をしていた。誰もが嬉しそうだった。この国唯一の「お姫様」は皆から愛されている。だから誰もが彼女に目を向け、祝福を与える。
「私」が「男」を選べば、皆も私に祝福をくれるだろうか。
カノン様の「上様」ではなく「ヘレン」としての私に拍手をくれるのだろうか。
ああ、そうであるならば、それはどんなに幸せなことだろうか。
「上様、カノンは綺麗ですか?」
カノンがきいてくる。
「ああ、とても綺麗だよ」
「本当ですか? カノンはとても嬉しいです!」
「本当だよ。私の『妹君』」
カノンはほんのり赤らめた顔に手を当てる。
「上様はもう大丈夫ですか?」
「ああ、もう大丈夫だよ。ありがとう」
もう大丈夫。だってカノンのように皆から望まれた「男」を選べば「ヘレン」は祝福をもらえるのだ。先ほどのような歓声に包まれるのだから、もう大丈夫。
司祭に向かって歩く。カノンがいるところよりも一段上の場所に立つ。皆の顔が見える。皆見てくれている。「ヘレン」を見てくれている。
「では、これをつけてください」
そう言った司祭から白い目隠しを受け取る。
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