第3話 浪花

 朝はいつも海の中で一番大きな鯨が知らせる。最も年長なこの鯨は千年前から生きていると言われているが、真相は誰も知らない。ただ、生まれた時から働き者な歌姫は私たちに朝を知らせているのだ。歌姫の歌は悲しくも孤独なものだが、千年も鳴いているせいか、時々どこか吹っ切れたような元気を垣間見せる。


 暗闇に包まれた海底ではこの歌とともに白真珠が光を灯す。真っ赤な珊瑚は色づき、海藻は波に乗り、静かに揺れる。魚たちは忙しく泳ぎ出し、今日も東の海から南の海へと冒険しようと仲間と議論する。結局面倒だと結論付けて、あの珊瑚礁を離れたことがない奴らがほとんどだが、彼らにはその会話こそが大切だった。点々と散っていた光点が繋がれて、最後には海底全体を照らした。美しい海が新しい今日を祝福して、ついに私はこの日を迎える。


 隣で寝ているカノンは毎朝目覚めが悪い。いつも歌姫の歌が最後の一節になる頃に、ようやく顔を上げる。それもこの世の終わりかのような、いかにも「眠いです」と言う顔をして歌姫の歌に対して批判をするのだ。


 先日ならば「今日の歌姫の歌はいつもより下手だったので、カノンはもう起きません」と。


 また、芸術に目覚めた日なんかは「ああ、もうだめです。歌姫さん。ここ、ここのところですよ。いつも思ってましたけど、もうちょっと高く歌うべきですよ。もう、カノンの方が歌が上手なので、今日からカノンが歌姫になりますね。ということで歌姫カノンは宣言します! 今日から朝は永遠に訪れません!」随分と饒舌にそう言ってはまたベットに倒れ込んで、目を閉じてしまった。


 そして今日も、なんて事のない日常かのように、カノンは歌姫の歌を拒んで、枕で耳を塞いだ。


「カノン、朝だよ。起きなさい」


「……やぁだ。歌姫今日も元気すぎです……絶好調じゃないですか……カノンはもう無理です……ベットから離れられません……」


「でも、カノン。今日は『お姫様』になる日じゃないのか?」


 ひっそりと声を潜めて、カノンの耳元で囁く。すると、カノンは先ほどまでの愚痴が嘘かのように飛び起きた。


「はっ! そうでした! カノンは『お姫様』で、上様は『王子様』ですもんね!」


 いかにも嬉しそうな顔で、片手に枕を持ったまま、ベットの上に立って宣言し出したカノン。あまりにも大きな声だったから、私は少し窘めようとしたが、それも徒労に終わってしまった。


 失礼しますと、ノックを経て侍女が入ってきた。真っ白なキトンに着替えさせられ、髪を解かす。腰に届くほどの髪はカノンのお気に入りで、いつも自分で解かしている。鼻歌を歌いながらカノンは上機嫌に話す。


「上様、あのね! カノンは今日『お姫様』になったらこの国で一番綺麗なドレスを着て、この国で一番かっこいい『王子様』とダンスを踊りたいです!」


 後ろに控えていた侍女は何も聞いていなかったふりをして部屋を出る。


「前に舞踏会で見た黄色のドレスとても綺麗だったんですよ! カノンもあれを着てみんなに『可愛い!』って言われてみたいのです!」


「……でも『お姫様』になったら今までみたいに庭を駆け回れなくなるぞ。カノンは昔から泳ぎが得意だったじゃないか。『お姫様』はあんな風に泳ぎ回らないぞ?」


「はっ! 確かに! ……いいこと思いつきました! カノンが『お姫様』になったら『王子様』に抱っこされならお庭を駆け回るのです! これでカノンは『お姫様』も大好きなかけっこも諦めずにいられます!」


「……確かにそれはいい考えだな」


 得意げに胸を張るカノンはいつもそうだ。自分の決めたことを突き通すためなら、何でも試そうとする。諦めを知らないのだ。


 対して私はあまりにも生き生きと話すカノンに劣等感を抱き、嫉妬してしまった。この子の前では自分がいかに惨めかを知らされる。どこまでも揺るぎがないカノンは私にとってあまりにも眩しい。眩しすぎて相手を貶めるよりも先に自分に嫌悪感を抱くほどだ。


 だから、眩しいカノンと醜い私とではどちらが正しいのか一目瞭然だったのだ。いつでも皆に認められるカノンが「女」を選ぶなら、私に残された選択肢はやはり「男」しかなかった。カノンと同じ「女」を選び、カノンよりも優れた結果を出せば、認めてもらえるなど最初からあり得なかった。定められた運命に逆らっても、きっと向けられるのは軽蔑の目だ。「男」を選べば、私たちは英雄。「女」を選べば、私たちは歴史の恥だ。国の宝であるカノンをそんなものに堕落させるなんて私は大罪人とでもなるだろうか。


 やはり「男」を選ぶ。それが一番正しい。わかりきった最適解はとっくに目の前に用意されていた。だから私の意思などそこには必要ない。そんなことを今まで悩んでいただなんて、私は一体何をしていたのだろう。


 髪を解かし終えたカノンは私を引っ張って、部屋を出る。カノンは寝起きが悪いが、起きてしまえばなんてことはない。日中の活動は誰よりも楽しんでいるのだ。食事に散歩、礼儀作法の稽古に勉学だって得意でなくとも楽しそうに取り組んでいる。


 そしてその中でも一番好きなのが食事だろう。甘いものが大好きだと顔に書いてあるようなものだ。食後のデザートが並べられるものなら、どんなに悲しい出来事があってもすっかり忘れ去って、満面の笑みを浮かべる。


「さっき転んだところは大丈夫か?」


「はい! まだ痛いですが、カノンがプリンを食べる邪魔にはなりませんので、大丈夫です!」


 口の端にカラメルをつけて、真剣な顔でプリンと向き合うカノン。一口でも味わい損ねたらいけないと、左肘の怪我に構ってる暇はないのだと言う。先ほどまで鼻水垂らして、滝が流れ出しているかのように号泣していたカノンはどこに行ってしまったのだろう。そうまでして食べたいのかと疑問に思いながらも、私は自分の分のプリンをカノンに譲ったのもいい思い出だ。


 だから、侍女に「カノン様たちは儀式のため、今日は断食をしなければなりません」と告げられたカノンの表情は、それはそれは悲惨なものだった。すごく物惜しげに厨房を覗き込んでいたが、結局その報酬として一杯の水を贈呈された。なけなしの希望を持って「今日はデザートありましたか?」ときくと、料理長からは朝食のデザートは苺ケーキだと告げられた。当然、ショックを受けたカノンは「い、いちごけー……き」と俯いてぶつぶつ言っていた。


「大好きなプリンじゃなくてよかったではないか?」


 私なりに励ましたつもりが、肩をぷるぷるさせたカノンが涙目で訴えてきた。


「わかってない! 上様! 全くわかっておりません! いいですか? 目の前で苺ケーキを食べている人がいるのに、カノンはそれを眺めることしかできないんですよ!? こんなの拷問に等しいです!」


「だ、だが、……」


「だがとか、でもとかもないです! カノンが人よりも多くデザート食べても、それは仕方のないことですけど、カノンが人よりも少なくデザートを食べたらそれは大問題です! カノンのデザートはカノンだけのものなんです!」


「そ、そうか」


 勢いよく力説されて、圧倒された私が返せた言葉はそれだけだった。要は苺ケーキでもプリンでもカノンの前でデザートを食べるのならば、カノンの口にもデザートが運ばれてなければならないということだ。カノンのデザートに触れれば、その晩枕元にカノンが「デザートを返せ」と唱えにくるそうだ。


 そんなカノンだが、今日は「お姫様」になるために我慢をするらしい。二度見、三度見してから厨房を離れる。いや正確には四度見まであった。城門を出たところで「やっぱりもうちょっと目に焼き付けてきます!」と言って、戻っていたのだ。デザートに対する執念はやはり誰よりも強かった。


 結局、カノンが謎に満足して戻ってきた四度見を経てから、儀式の準備をするのだと教会に連れられた。白漆で塗られた壁は白真珠おかげでさらに映え、色とりどりのステンドグラスには例のお伽話のような歴史が刻み込まれている。座席はなく、ただの広い広場のような場所だが、いつもなら礼拝に来る人で溢れている。


 この国の神は「海」。「海」は慈悲深く、全知全能で、少しわがまま。そして不安定な「海」を「海親」は慰撫し続けなければならない。百年に一度「海」は欲するものを「海親」を通して私たちに宣託を下す。ここにある顔をベールで隠された女とも男とも言えない姿を刻まれた像が「海親」だ。誰もみたことないこの方に祈りを捧げ、私は今日「男」を欲するだろう。果たしてこんな私の願いでも叶えてくれるだろうか。


「では、月が出るまでここで瞑想をしましょうね」


 いつもお世話になっているシスターはそう言う。教会の奥のこの小さな部屋は文字通り何もないところだった。真っ白な壁に囲まれているのに、まるでこの部屋がどこまでも広がっているように見える。


「お二人ともご存じですよね? 『海』は慈悲深く、全知全能で、少しわがまま。神様に失礼のないように、今からこの浪花が枯れるまで目を瞑ってゆっくり今日神様にお祈りすることを考えましょう」


 シスターは真っ赤な浪花をそれぞれ私とカノンに渡した。この浪花は陸に生えているものだ。それも崖にだ。根を生やし、桃色の蕾となり、いざ開花するかと思うと海に落ちてくる。波に揺られながらゆっくりと開花し、だんだんと紅に染まっていく。実ができると、それは赴くままに風に乗り、またどこかの崖に止まる。残った花は枯れることなく、またゆっくりと時間をかけて海底に沈んでくるのだ。そして海底に来てもその美しい姿を保ち続けるのかと思うと、半日足らずで枯れてしまう。花散る時まで優雅で、その大きな花びらを一枚一枚脱がしていく。芯だけとなってからやっと土に還るのだ。


 海の時間はほとんど浪花に委ねられる。ほとんどというのは浪花がなかなか採取できない時があるからだ。どこまでも自由なこの花は咲く時期も散る時期も不定期である。だが、どうやら夏を好んでいるらしく、夏の海底は真っ赤に染まっていることだってある。逆に冬には一輪も見られないこともあった。


 だが、海の住人は時間という概念が薄い。歌姫が歌う朝に起きる、ということ以外の活動には定められた時間帯がない。陸の住人のようにいつも時間に追われているわけではないのだ。これもあの子から聞いたことで、私にとってはとても興味深い話だった。ともかく浪花を日常で使うも使わないも海の住人にとっては大差のないことなのである。今日は儀式のためだからという珍しい状況にあるのだ。


 目を瞑り、真っ白な世界から真っ暗な世界へ。時間の流れを忘れ、私は神に祈る。どうか私に「男」をお与えてください。決心が揺らがないうちに、まだ私が自分の葛藤に気づかないうちに。どうかどうか早く、私に答えをお与えください。


 浪花の花びらがそっと手に触れる。一枚、二枚。三枚目は少し大きい気がした。四枚目となると、私はもう待ちきれなかった。目を開けていた時の景色が恋しかった。早く、早く。もっと早く五枚目が訪れなければ、もう我慢が効かない。早く新しい自分を見てみたい。早く惨めな自分から脱したい。早く、早く。もっと早く。永遠のように感じる五枚目の訪れはなかなか来ない。


 明らかな焦りを感じるようになった。目を開けた時、カノンは隣にいるだろうか。もしかしたらもうどこかに行ってしまったのではないだろうか。今年の儀式はカノンと私の二人だけだ。もし、今年の儀式ができなければ、私は永遠とこのまま。永遠と私だけがこの呪いに囚われたまま。そうなれば、なれば……。


 パンッと手が叩く音が響いてきた。


「お二人ともお疲れ様でした! もうそろそろ月が出る頃ですので、祭壇に向かいましょう」


 久しぶりに開いた目に映るのはやはり変わり映えのしない白い世界。慣れない光に目を擦る。周りには五枚の真っ赤な花びらが散っており、手にはまっすぐに伸びた浪花の芯が残っていた。隣にいたカノンはちょっとぼんやりとしていたが、私を見るなり、微笑みを浮かべた。


 シスターは教会全ての白真珠の殻を閉じ、「海親」の像に深々と礼をした。いつもならまだ白真珠が灯る街並みは暗闇に包まれている。皆もう向かっておりますよと言われ、私たちは上へ上へと泳ぐ。


 海から顔を出す。風が顔に当たる。ひんやりしていて涼しかった。今夜は満月だ。綺麗と思うのが正しいのかもしれないが、今の私にはこの満月が忌々しく見えていた。満月でなければ祭壇のある洞窟は顔見せない。いつもは海に呑まれているが、満月となると陸のものとなる。かつての「海親」が海を創るために降り立ったところとされ、私たちはそこへ向かう。

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