第2話 あの子
あの子は私と出会った時から「男の子」で、これまでもこれからもそれは変わらないものであった。この世界で「性別」を神に乞うのは、私達人魚だけだから。まあいい。それはいい。今更運命に抗おうとも思えないため、嫉妬という感情も芽生えない。不思議な文化だと感心されたぐらいだ。自分の運命に誇りを持つべきだと私も言ってしまった。
そんな彼と出会ったのは全くの偶然だった。誰もいないはずの湖で、彼は声をかけてきた。驚いたのはもちろんのことだが、その日の私は情けないことに涙を流していた。急いで涙を拭って私はなんでもないように装ったが、どうやら彼は私が泣いていたという事実に気付いているようだった。沈黙が続いたが、彼がここを離れる気配はない。気を紛らわすためか、彼は世間話を切り出そうとした。
「いっい、いい天気ですね!」
「……」
私は答えに困ってしまった。空からはポツポツと雨が降り出し、私の鼻先へ雫がつうと通ったからだ。咄嗟に嘘をつけるほどの器量など私にはなく、彼は真っ赤になった顔を俯かせてしまった。私たちは雨に打たれたまま湖に広がった波紋を静かに眺めた。だが、他人との沈黙はさすがの私も苦手のようだった。私は声をかけた方が良いのだろうかと思案していると、彼はいつの間にか消えていた。やっぱり無口な私に愛想が尽きたのだろうが、よく知りもしない人と話すという状態にならなくてよかった。そう安堵していたところ、彼は再び私の前に現れた。
「あ、あの濡れてしまいますよ?」
そう言って彼は自ら着ていたジャケットを頭の上に翳してきた。私は人魚で常に濡れているというのに、その瞳にはどこまでも純粋に私への心配を映していた。彼自身はすっかり雨に濡れてしまっていて、その髪からは大きな雫が垂れている。
「さっ、さっき、か傘とってこようとしたんだけど、あ、雨大きくなっちゃったので……」
思わず笑ってしまった。頭をこてんと傾け、彼は不思議そうにこちらを見てくる。おずおずしながらも出会ったばかりの私を気遣うの必死さが可笑しかった。真っ赤だなと口を滑らせれば、彼は焦った表情をしたが、結局は一緒になって笑っていた。
それから私たちはいろんなことを話した。本でしか知識を得られなかった私はこの世界の広さに驚いた。地上で暮らす者もいない訳ではなかったが、ほとんどの人魚は海中でその一生を終える。海という限られた環境でも誰もそれに不満を感じることはなかったからだ。勿論私も例外ではなく、陸には興味があっても、その未知な世界に足を踏み入れようとまでは思っていなかった。
「そ、それでその『犬』とやらはどうなったんだ?」
「それが僕に噛みついてきたんだ! 振り払おうとしたってついて来るし、兄様からは『お前はあれに好かれてるんだよ』と言われたけど、とんでもない! あれに好かれるくらいならドラゴンの巣窟で一晩寝過ごした方がマシだと思ったよ!」
「ど、『どらごん』とはなんだ?」
「恐ろしい化け物のことだよ。しかもただの化け物じゃないんだ。この世のどんな生物よりもこんな大きくて、とっっても強くて。さらに凶暴なんだよ」
「へー……それは恐ろしい。君のその開けた両腕よりも大きいのか」
「で、でもまあ、僕に言わせてみればそんなの翼を生やしたただのトカゲだけどね!」
「『とかげ』……? 『トカゲ』……ああ! 本で読んだことあるぞ! 四本足で地を這う尻尾が何本も生える生き物のことだろ!」
「そう! だけどドラゴンってのはもっとタチが悪い……あいつらはフルーツしか食べないくせに人を襲うんだ! 伝説によると誰かを探してるって言うんだけど、間違って探してるそいつごと食べてしまうかもしれないのによく言うよ!」
大きく身振りをつけながら生き生きと話す彼の話に私は引き込まれていた。海に留まっているだけでは知り得なかったこの世界に私は感心するばかりであった。
雨はいつの間にか止み、空が真っ赤に染まるようになっても私はまだ心の底から湧き出る好奇心を抑えることはできなかった。
森の外から声が聞こえて来る。侍女の声に彼は「戻らなきゃ」と慌てたように言った。名残惜しそうにそして、相変わらず心配そうにこちらを見るので私は大丈夫だと手を振ってやった。
翌日、その翌々日もまた私はその湖へ通い続けた。約束も何もなかったけれど、彼ならいるかもしれないと思った。案の定、彼もまたその湖で待っていた。
雨はあの日から一度も降っていないが、彼はいつも「傘」を持ってくるようになった。「濡れたら風邪引くんだよ?」と真剣な顔つきで説明されたが、ならば私は何回風邪を引いているんだろうなと返してやった。数秒と沈黙を経て、はっと驚いたように目を丸くしていたが、彼はそれからも「傘」を持ってきていた。「傘」が好きなんだろうなと思って私も言及するのはそこで辞めにした。
彼との会話は驚くほど弾んでいた。カノンと一年も図書館で話していたおかげなのか、私たちの間で会話が途絶えたことはただの一度もなかった。質問だらけの相槌に彼は文句も言わず、ただひたすらに私の好奇心に応えてみせた。自分がカノン以外の誰かとこうして話せているのが夢みたいで、初めての「友達」というものを手にし、浮かれていたのだと思う。
与えてもらうばかりでは申し訳ないと、彼に「私にもなんでも聞いてくれ」と言った。
「海ってどんなところ?」
聞かれるであろう質問だと分かっていたが、私はできるだけ今の感情を正確に伝えられるよう、慎重に答えた。
「そうだな……今までの私なら『素晴らしいところだ』と断言していたかもしれないが、君の話を聞いて気が変わった。本当はなにもないところだったのかもしれない」
「そう? 海にもいろんな生き物がいるんでしょ? 例えば……そうだ! 『魚』! いるのか?」
魚は確かにいる。だが、陸にはあの広い空を翔ぶものだって、緑の草原を駆け回るものだっている。それに比べれば海にいる魚なんてちっぽけなものだと思ってしまった。それに海の世界にはないものを沢山持つ陸ならばきっと魚ぐらいいることだろう。
「陸にはいないのか?」
「いない。『魚』は海にしかいないんだ。陸には川とか湖があるけど、『魚』はどこにもいない。僕だって本でしか見たことがないんだ」
「なら海に来て見たらどうだ? 私が案内してあげるよ!」
我ながら名案だと思った。これならきっと恩返しにもなるだろう。彼の役に立てると考えれば気分は自然と上々になっていった。だが、彼は驚いたように口を開けた。
「知らないの? 海に棲めるのは人魚だけなんだよ。他の種族が入ったら呼吸もできずにすぐ死んでしまうんだ」
衝撃的な事実に湖の中で気分良く円を描いていた尾はバシャっと水を跳ねた。
「ほ、本当か? 海で呼吸するにも陸で呼吸するのも大差ないぞ? ほ、ほら、こうやって……」
そう言って私は何回か深呼吸して見せた。海の中でも同じように、空気を入れ替えればいいんだぞ? と彼に主張してみたが、彼は苦笑いした。分かってはいてももう一度聞かずにはいられなかった。これでは役に立つどころかまたしても逆戻りではないか。
「それを僕たちにはできないんだ。しかも呼吸できないだけじゃない。 海には陸の誰も近づけられない呪いがかかっているんだ。だから僕たちが近づけば……」
「呪い殺されて、死んでしまうのか!?」
こくりと彼は控えめに頷いた。もう言葉が出なかった。私はそんな恐ろしいことを提案していたのかと落ち込んだ。彼は慰めるような笑みを浮かべてまた言った。
「多分ね。最近はもう近づく人がいなくなったし、そう言う事件を聞いたことがないけど、過去の資料を見る限り、戻ってきた人はいない……らしい」
「そう、なのか……」
「だから、海のこともっと聞かせてよ」
こてんと頭を傾けた彼はカノンのようで、でも少し違っていた。甘えてくるような仕草だが、それは私自身に選択を完全に委ねたもので、確かな答えを求めるものではなかった。
海のこと。海のことならばなんでも知っていると思っていたが、実際そうでもなかった。何を伝えればいいのだろうか。陸と比べてあまりにも海は……
「……海はとても暗いところなんだ」
「うん」
「『太陽』もなくて『月』もなくて……」
「うん」
ゆっくりと途切れ途切れの言葉に優しい相槌が返ってくる。ないものばかり数えても仕方がない。私はいつもの日常を思い返した。私の側にあったもの。私が見てきたもの。私の心を揺るがしたもの。そう考えて真っ先に思い浮かんだのは、幼い頃からあった暖かい光だった。
「……だから私たちは時々光を集めに陸に来るんだ」
「そうなのか!? どうやって集めるんだ?」
「白真珠は光を浴びると輝きが増すのは知っているか? それに光を溜め込んで灯りとして使うんだ」
『白真珠には光を、蒼真珠には願いを、黒真珠には血を捧げよ』それは私たち人魚の古から伝わる万の魔女の言い伝えだ。白真珠には光を注ぎ、灯りとして使う。蒼真珠には願いを込めれば、私たちを任意の場所まで運んでくれる。黒真珠には血を捧げれば、呪われ、不幸に苛まれるため、今では禁忌とされ、王族が一括して王庫に管理することになっている。
私が毎日この湖に通うことができているのも蒼真珠のおかげである。水がある所にならば、蒼真珠を使って転移することができるのだ。
「『真珠』を灯りとして使うのか!?」
「そうだが?」
「海には『真珠』が沢山あるのか!?」
「そう、だな?」
「すごい!」
「……すご、い?」
思っていたよりも随分な賞賛をもらい、私は戸惑ってしまった。褒めてもらうなど久しぶりで、どこかむず痒くて私は尾で水を軽く叩いた。
「そうだよ! 陸には真珠なんてないんだ! 時々『ミロ』という商団がどこからか商品を出すらしいんだけど、そしたらその真珠はすごい値段で売買されるんだ。真珠を国宝にしてる国があるぐらいなんだから、それを灯りとして使っているだなんてすごいことじゃないか!」
「みろ……?」
「性別、年齢、種族,何もかも不明だけど、珍しい商品を沢山扱っている商団としては有名なんだ」
結局その日も私は教えるというより、やはり彼に教えてもらったことの方が多かった。そう気づいたのは、またしても空が真っ赤に染まった時のことであり、私は申し訳なさと後悔を抱えた。
その晩、それは月が半分に欠けていた夜のことだ。私はどこか居た堪れなくて、目が冴えていた。理由もわからなかったが、心のどこかで今日の自身のあの会話たちは見苦しいものだったと主張している。会話の一連を細々と思い返してみれば、ますますその通りな気がしてたまらなかった。
何かお詫びをすればいいのではないか?
天啓の如く舞い降りた考えに、私はそれしかないと、飛び起きた。
次の日、私は左手に白真珠のペンダントを持っていった。悩みに悩んだ末に、やはり彼が見たこともないものを贈ってあげたい、と思ったのだ。また昨日のように「すごい!」と褒めてもらえるかもしれないと考えると、私は嬉しくなった。
だが、その日どれだけ待っても、彼は現れなかった。次の日も、また次の日も、空が真っ赤になるまで待ち続けても、彼はいなかった。
私は何か間違えを犯したのだろうか。
やっぱり怒らせてしまったのかもしれない。
誰だってこんなまともに話ができない奴とは「友達」にはなりたくなかったんだよ。
貰うばかりで返しもしない、こんな欲しがりなんて図々しいと思われたに違いない。
いつの間にか心の中で自分に悪態をつく「私」が現れた。だが今までもどこかに潜んでいたのだろう。「私」は時間を経るごとにいとも簡単に私の心に棲みついてしまった。私も私で、それを追い払うことはできず、そのまま「私」を心に飼って、湖に通い続けた。
海について知りたかっただけなのに、私は何も知らないから呆れられたんだよ。
見慣れない種族に興味を持ったから近付いただけだ。
きっと今頃あの双子の姉妹のように誰かに私のことを話して私を捕まえようと企んでいるんに違いない。
ふと、「私」はそんなことまで言い出したのだ。だから私は「私」に初めて否定を下した。
良くしてくれた彼をそのように疑うなど、お前ほど愚かな奴はいない。恩を仇で返すような奴とはまさにお前のことだ。
そうはっきり言ってやると、「私」は口をつぐんだ。
誰にもわからないはずの秘密の会話だ。だが、私はその日から湖の沿岸に座って堂々と彼を待つことができなくなった。湖底からこっそりと時が過ぎ去っていくのを待つことしかできなくなったのだ。彼は来なかったが、こんな自分を見られるぐらいなら来ない方が良かったのかもしれないと、寂しくも少しの安心感を抱いて冷たい海に戻る日々を繰り返しすようになった。
だが、そんな日常も改めなければならなくなるだろう。私が「男」を選ぶにしても「女」を選ぶにしても、もう今まで通りの私で彼に接することができない、気がする。「男」としての私は王だ。「女」の私なら罪人かもしれない。どちらにしろ、もう責任も義務もないただの私ではなくなるのだ。もう彼には会えないかもしれない。でもいつか訪れるかもしれないその日のことを考えると体が硬直しそうだった。
白真珠のペンダントは置いてきた。見つけてくれたらそれを身につけて、私を置いてどこか行ってしまったことを後悔して欲しい。見つけなくてもそれでいい。苔に絡まれても、他の誰かが見つけて売り飛ばしてたって、それでもいい。私は明日から変わるのだから、これを機に彼とはいい決別をするべきだ。
だけど、それでも、ただ。少し心細くなっただけだ。「男」という決断が正しいのだと、誰かに認めて欲しかった。この昂る不安を治めて欲しい。明日のあの場に一人で立ちたくはない。皆がカノンに与える答えのように、私にも誰か確かな答えをくれないだろうか。そう少し思うだけだ。
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