第5話 貝殻
「きゃっ」
聞き慣れた声の持ち主の小さな悲鳴が聞こえる。私は目隠しをしようとしていた手を止め、声の主の方に顔を向ける。
「す、すみません! そのどうやら貝殻を踏んでしまったようで……」
少し気恥ずかしそうにカノンは言った。入り江から声が聞こえる。
「やっぱりカノン様は『お姫様』だよな」
「カノン様、立派に成長なさりましたよね」
「お綺麗であんなにも明るいのに、どこか抜けていらっしゃるところがあるなんて、可愛らしい『お姫様』ですね」
「見て、足から血が流れてらっしゃる」
「ほんとだ。痛そうだよ」
「お労しい。それなのに慎ましくあそこで上様を見守ってらっしゃるなんて、なんて健気なんでしょう」
「先ほども上様の代わりに先に儀式を行ったんだよね?」
「家族思いな方だからね」
「お母様! 私も将来カノン様のように綺麗な『お姫様』になりたい!」
「まあ! それは素晴らしいね。あなたならきっとなれるわ!」
「でもこれ、カノン様が『女』になったら上様は『男』だよな?」
「上様なら大丈夫だろ。上様だってわかってくれるだろう。だってカノン様が『女』選ぶって、こんなのみんな昔からわかりきったことだったじゃないか。上様なら丸く収めてくれるはずさ」
「そうだわ。上様ならきっとカノン様の良い
い『兄』になるよ」
「これでこの国の未来も安定ですね」
「そうだな」
誰も「ヘレン」を見ていなかった。口々から出てくるのはカノンの「上様」だけ。カノンの一挙一動を心配してる彼らには私が映っていない。悲しいのだろうか。悔しいのだろうか。心にぽっかり穴が空いた気がした。
どうして今もカノンを見るんだ?
「私」は、「ヘレン」はここに立っているのにどうして皆カノンに目を向ける!
今から性別を乞うのは「私」なのに、どうしてもうとっくに「お姫様」になったカノンを見るんだ!
「私」を見て!
「私は『女』になる!」
気づいたらそう口にしていた。皆の視線が「私」に向けられていた。「お姫様」のカノンの「兄」にはならないと宣言した「私」は今「ヘレン」だ。きっと皆の目に映る「私」は「上様」ではなく「ヘレン」になっているだろう。生まれて初めて誰かに見られた気がした。だが、その視線は決して祝福のものではなかった。皆懐疑をその目に宿している。
「今、ヘレン様なんて言った?」
「お、『女』? ヘレン様が?」
「なんで?」
「カノン様が『女』を選んだんだから『男』になるべきじゃないの?」
「カノン様の夢が『兄』を持つことって知らないのか?」
「まさか! 一緒に育ってきた双子ですのよ? ご存知でしょう」
「なら、どうして『男』を選ばないんだ?」
「へ、ヘレン様って『女』になりたかったの?」
「そうなんでしょうかね……。でも性別を選ぶのは自由ですからね……一応……」
「ヘレン様が『女』って……」
「そうですよね……似合わないとまではいかなくても想像がつきませんね……」
「でも双子の『女』ってなんだか不吉……」
「せっかくカノン様が『お姫様』になってくださったのに、上様まで『女』になるなんて……」
「上様もちゃんと熟考なさってからの答えかしらね……」
「カノン様はあんなにも家族思いな方なのに……」
「カノン様が可哀想ですわ……」
皆の目に「ヘレン」はほんのひと時しか留まることができなかった。それでもその僅かなひと時が「私」の野心に火をつけた。
皆カノンではなく「私」を見ている。だが、足りない。まだ「上様」の「私」を見ている。きっと「女」になってこの洞窟から出てくれば、「私」は「ヘレン」になっている!
入り江から聞こえてくる声を振り払って目隠しをしようとする。一番近くからカノンの視線を感じる。カノンと目が合った。カノンは今までに見たことない表情をしていた。どこか寂しそうで、でも満足したかのような顔。だが、決して私を責めるようなものではなかった。
どうして私は「女」になると言ってしまったのだ。
残った僅かな理性が「私」に訴えてくる。ほんの小さなマッチのような理性は、大波のように溢れ出てくる「私」の野望は掻き消される。
あのまま「男」になっていれば、「ヘレン」は死んでしまう! 皆が「ヘレン」を忘れ、「上様」だけが生き残る。そうならないために私は「女」になるのだ!
目隠しをし、この世界から目を背ける。あのままカノンに見つめれていれば「私」は消えてしまいそうだった。
冷たい洞窟を歩く。風が強くなって、洞窟中に風の音が響く。肩に水滴が落ちる。いつも水に浸っているのに、陸に出ると、それすら驚くようになる。司祭は何も言わない。彼は先ほどの「私」の宣言をどう思ったのだろう。恐ろしいほど敏感になった五感は大胆な選択をした「私」とは違って慎重になっていた。外から聞こえる声から一番近くにいる司祭の感情を少しも取りこぼさないように必死に作動する。
「では、ここに指を当ててください」
目隠しが取られる。祭壇の上には箱のようなものが置いてあり、その上には細い針が立っていた。針に人差し指を刺す。小さくもはっきりとした痛みが伝わってくる。
どうしてか先ほどのカノンの顔が浮かんでくる。カノンもこの針に指に刺したのだろう。痛かっただろうか。怖かっただろうか。いつもは小さな擦り傷でも泣き出すような子だ。血を流すことを目的としたこの針に指を差した時、どんな気持ちだったのだろう。
強気だった「私」はどこかに行ってしまっていた。刺さる人差し指は思ったよりも痛かった。司祭はどこにもいなかった。残された私は一人痛みを抱えて、洞窟の外に向かって歩き出す。
洞窟を出た私はきっと「女」になっているだろう。カノンに何を言おう。「悪かった」、「許してくれ」。どれも違う気がする。だが、カノンは許してくれるはずだ。私が知っているカノンはそんな子だから。また「上様」と呼んでくれるだろうか。いや、「お姉様」と呼んでくれるだろうか。裏切った私を許してまた笑顔を見せてくれるだろうか。図々しいのはわかっているが、許してくれた後のカノンとの日々を想像する。
洞窟が妙に長いがする。カノンに早く謝りたい。そう思って足を速める。外はまだ夜だ。どれだけ進んでも、洞窟に少しも光が入り込んで来ないから、きっとそうだ。これから二人でこれから神楽を舞うのだ。性別をくれた神に感謝を伝えるために神楽を舞う。カノンが選んだ「女」の舞衣を着て、月明かりの下で私たちが舞う。その未来が今も目の前にあるかようにはっきり見える。そうだ。早く行かなきゃ。カノンが待っている。
ようやく洞窟の出口が見えた。早く終わらせたい。どこまでも自分勝手な私は早くこの嫌な予感から抜け出したかった。外に出てカノンのようにいかなくとも皆に「ヘレン」は「女」になったのだと認めてもらいたい。カノンには悪いことしたからこれからの一生を使って贖罪する。だから、また「上様!」と言って私に笑いかけてくれ。
ああ、本当にどうして私は「女」になると言ってしまったのだ……。
外に出た。洞窟の中よりも温度のある風に当たる。満月は相変わらず欠けることなく、丸いままだ。波の音がする。静かだ。まるで誰もいないかのように静かだ。
それもそうだ。誰もいないのだから。そう、本当に誰もいない。あるのはそこに転がっているカノンだったもの。入り江は真っ赤に染まっていた。まるで夏の浪花かのように真っ赤だった。
ど、どうして……。い、いや、まさか……そんなこと……!
「か、カノン……?」
カノンであるそれに触れる。桃色の頬と血色の良い唇は色褪せて、私とお揃いの蜂蜜色の瞳は固く閉ざされている。ただいつもと同じだったのは自慢の絹のような銀髪だけだった。相変わらず滑らかな髪は私の手からするりと落ちていく。目から口から、穴という穴から流れてているそれはカノンを赤く染める。白いキトンにも浪花が散っている。冷たい。手に残っている温度が消えていく。カノンの冷たさは手から伝染してやがて私の体を蝕む。
「……っカノン! 朝だよ。お、起きて? こ、ここは冷たいよな? 体が冷えてしまうよ。ほら上様だよ? 歌姫も歌ってるよ? どうしたんだ? ……目を……目を開けてくれよ……」
カノンを抱き上げようとするが、体が重かった。重いのは私の体か、カノンかすらもわからない。入り江の方に顔向ける。夜に映える満月が赤くなった海を照らす。赤い……。ただただ赤い……。もうそれしかわからなかった。
消えたはずの「私」が戻ってきた。
お前が「女」を選んだ罰だ。
いや、そんなわけない。あのお伽話にような歴史は、どこまでもお伽話だ。呪いとも言われていなかった。そんなの関係ないに決まっている。きっと……きっと……!
考えれば考えるほど、「私」の言う通りな気がしてきた。他の可能性を考えようとしても、「私」に邪魔されて、思考がまとまらない。
大体「女」を選んだのはお前じゃないか! 私じゃない!
何を言っているんだ? 「私」はお前だろう?
「私」に返す言葉が見当たらない。呼吸がまた早くなる。心臓も加速していく。頭が割れてしまいそうなほど痛い。それなのに思考はなんとも冷静で、私は私を気味悪がることしかできなかった。夜は相変わらず暗いのに、私は更なる闇に堕ちていく。体が崩れ落ちていく。今になってようやく痛がっていた足を思い出した。違和感はもうなくなっていたが、相変わらず一歩踏み出すのに勇気がいたな。だなんてまるで遠い思い出話のようだった。
ああ、風が当たる。このまま浪花のようにどこかに飛んでしまえたらいいのに……。カノンの匂いが漂ってくる。カノンがいつも好んでつけている浪花の香水にもう一つ微かな匂いが紛れ込んでいた。甘い匂い。ほんのりだが、これは生クリームだろうか。甘すぎず薄すぎずに、ほどよい甘さだ。もう一度風が吹く。鼻につくのは浪花の匂いだけになった。果たして先ほどの匂いは私の妄想だったのか、現実だったのかがもうわからなくなった。だが、もしこれが現実ならば、匂いの正体がわかる気がする。
「……いちごけーき……」
朝、厨房を訪ねた時に残ったものだろうか。そういえば、あの四度見目の満足した顔はやはり盗み食いをしたからだったのかもしれないな。
ふとあることに気がついた。
諦めが悪いカノンが生まれて初めてそして唯一、諦めたものは私だったということに気がついた。どんな手を使ってでも手に入れたかった「王子様」をカノンは私と目を合わせたあの時、もうすでに諦めていた。カノンの瞳の奥に隠れていたのは寂しさでも切なさでもなかった。それは私に対する諦めの色だったのだ。
ああ、私はどこまでも情けない。
「ご、ごめん……なさい」
誰にも届かない謝罪を口にする。
私があなたの上様でごめんなさい。
どこまでも自分勝手でごめんなさい。
許してくれるだなんて考えていてごめんなさい。
あなたを裏切ってごめんなさい。
謝ることしかできない私でごめんなさい。
私の意識はそこで途絶えた。
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