第6話 お人形さん

 騒がしい……。体が柔らかい何かに包まれている。額にひんやりとしたものは当たる。冷たいけど、気持ちいい。私は今何をしているのだろうか。目を開けようとしても瞼が重い。体のどこを動かすのもままならないようだった。どこにいるのだろう……。ああ、どこでもいい……。許されるものならまだもう少しこのまま……。


 途切れかけていた意識の先に、誰かの話し声が聞こえた。まだ幼い少女の声だろうか。


「ねえ、ママ! お人形さんもうおねつなさそうだよ! アリサの手を当ててもあちちってならない!」


「そう。確認してくれたのはよかったけど、お人形さんの邪魔にならないでね」


「お人形さんまだ目が覚めないの? もう太陽がのぼってるよ! お人形さんっておねぼうさんだったの?」


「そうね。お人形さんはまだ疲れてるのよ。アリサはあっちで遊んできなさい」


「えー! でもアリサこのお人形さんとあそびたい!」


「アリサにはこの前買ってあげたお人形さんもあるでしょ」


「このお人形さんの方がきれいだもん!」


 はっきりと会話が聞き取れた。


 お人形さん……? カノンがよく遊んでいたあの人形……。 カノンも大切にしていたな……。カノンも……。そうだ! カノン!


「っ……!」


 カノンと叫んだはずだが、声は出ていなかった。どうやら私はベットの上にいたようで、体を急いで起こした。あの満月のように丸く青い目をした少女と目が合った。


「わあ! お人形さん!」


「あら、あはよう。お人形さん。ごめんね。勝手に拾ってきちゃって。でもあそこにいたら海に呑まれちゃうところだったのよ。それにひどい熱だったから……」


 怖い。見たことない景色に、見たことない人。私は今自分が置かれている状況が恐ろしくてたまらなかった。ベットの隅に身を窄める。ここは海じゃない……? 陸なのか……? 突然意識すると、呼吸ができなくなりそうだった。陸と海の中じゃ呼吸の仕方が違う。いつの日か言われたことのあるその言葉を思い出した。少女の母親らしき人は言葉を止め、少女を部屋から追い出す。


「ほら、アリサ。お母さんはこのお人形さんと少しお話するからあっちのお部屋に行ってきなさい」


「えー! アリサもお人形さんとお話ししたい!」


「ちゃんといい子にしてたらあとでりんご飴を作ってあげるわ」


「え! ほんとっ! やくそくだよ!」


「ええ、もちろん」


「じゃあアリサいい子にしてるね! バイバイ! お人形さん!」


 少女は私に元気よく手を振り、隣の部屋に向かう。母親はこちらを向き、私の手を優しく取る。


「こちらの可愛いお人形さん。自分のお名前言えるかしら」


「……!っあ、え、へっ……へ……っ」


「大丈夫よ。ゆっくりゆっくり……落ち着いて言ってごらん」


 そうだ。ヘレンですって言えばいいだけだ。大丈夫だ。次こそはちゃんと言わないと……。


「……っ」


 言葉が出てこない。言いたいことがあるのに声が出ない。まるで声の出し方を忘れたかのようだった。どうしてこんなこともできない。自分に怒りが覚えてくる。


「……話せないの?」


 そう聞かれた私は大人しく頷いた。


「元々?」


 頭を横に振る。


「そう。無理に話さなくて大丈夫よ。私が言うことを聞いていればいいわ」


 小さく頷く。


「あなたの名前はわからないからひとまずお人形さんって呼ぶわね。お人形さんは二日前、アリサと海岸で拾ったの。ほら、満月で潮が引いて、砂浜が綺麗だったから、アリサと一緒に散歩してたのよ。そうしたらあなたがいて、本当は公爵様に任せようと思ったんだけど、公爵様は今都に行ってるらしくてね。しかもあなたひどい熱だったからとりあえず熱が下がるまでは、面倒見ようと思って……。お人形さん訳ありのようだけど、帰るお家はありそう……?」


 彼女はどうやら初めて会う私に気を遣っているらしい。帰る家……。カノンたちはもういないのに、私が帰る場所などあるのだろうか。


 私は首を横に振る。


「そう……。じゃあここにいよっか! これから一緒にここに住めばいいわよ」


 嬉しそうに手を合わせる彼女。見知らぬ私の看病をしてくれた上にはさらに住居の提供まで。お人よしにもほどがある。何か裏があるのではないかと疑うが、彼女はそれを見抜いたようだ。


「実はね……さっきの子、アリサも私の子じゃないのよ……七年前に店の前に置き手紙と一緒に籠に捨てられてて、私が保護したの……アリサは知らないけど、あなたも行き場がないなら私にとってはアリサと一緒よ」


 先ほどとは違って少し弱々しく彼女は語る。どうやらこの人は本当に救いようがないお人よしなようだった。迷惑をかけているのは私の方なのに、彼女はまるで私が断るのを恐れているようだった。行き場のない私は小さく頷く。


「よかった! 私はメアリーよ!お母さんって呼んでもいいけど、メアリーさんでもいいのよ! あ、そうだった声が……あなたが私を呼ぶ声が聞けなくて残念だけど、これからよろしくね、お人形さん」


 お人形さんとこれから呼ばれ続けられるのはどうしてもむず痒い。ベットの横にあった花瓶の中から水を出し、ヘレンと文字を作る。


「まあ。ヘレンね! 素敵な名前。よろしくね、ヘレン」


 リズムよく軽やかに階段を登る音が扉の向こうから響いてくる。


「ママ! 見て! ちょうちょさん!」


 興奮しながら部屋に駆け込んでくるアリサの指の上には蝶が止まっていた。


「もうアリサったら……お部屋に入る時は何をするんでしたっけ?」


「コンコンってするの!」


「ではこちらのかわいいお嬢さん。あなたはコンコンをしましたか?」


「し、てない……で、でも早くしないとちょうちょさんにげちゃう……」


 そう言ってアリサは左の手に乗っている蝶を右手でそっと包むようにする。眉を内側に引き下げて可哀想な顔をする。


「次からは素敵なレディーになってちょうだい。お約束できる?」


「うん!」


パッと顔を明るくし、本当にアリサは嬉しそうに笑う。


「じゃあ小さなレディーは何を持ってきてくれたのかしら?」


「これ!」


「あら、綺麗ね」


「お人形さんも見て!」


 彼女の小さな手から開かれた蝶は、光に当たって銀色に見える羽を持っていた。陸の蝶がどんなものかはわからないが、この蝶はとても綺麗だった。


「ねえ、アリサ。お人形さんがアリサのお姉ちゃんになってもいい?」


「え! ほんとっ! こんなきれいなお人形さんがアリサのお姉ちゃんになるの!? 毎日いっぱいあそべる?」


 メアリーさんは笑って頷く。アリサがあまりにも手を挙げて大喜びするものだから蝶は指から飛び立ってしまった。私の方に飛んでくる。蝶が妙にゆっくりと近づいてくる気がする。光を散りばめながら蝶は羽を精一杯動かす。海の図書館の図鑑で見たあの蝶よりずっと綺麗だ。蝶は私を超えて開かれた窓を出る。部屋という枠組みから外れた蝶はもっと大胆に羽ばたく。涼しく吹かれる風に逆らって大空に向かう。あの満月が掛かっていた空は澄んでいた。夜の訪れなど嘘だったかのような青空が広がっている。

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