第7話 夢
「じゃあ、お人形さん、アリサのお部屋にいこ! アリサの宝もの見せてあげる!」
「お人形さんじゃなくてヘレンだよ」
「ヘレン! お人形さんはヘレンなの?」
キラキラと期待した目を向けられる。小さく頷くと、アリサは私に顔をずいっと近づけた。
「すごい! アリサのお人形さんといっしょのお名前だ!」
そう言ってアリサは肩にかけていたバックから二つ結びの三つ編みをした女の子の人形を取り出した。
「この子もヘレンって言うんだ! アリサに二人もヘレンがいるなんてうれしいな!」
差し出されたその人形をどうやらアリサは私に受け取って欲しいようだった。おずおずと人形を受け取ると、アリサは私の手を引いた。
「ヘレン! アリサのお部屋にもっといっぱいお人形さんあるんだ! 見せてあげる!」
「アリサ、ヘレン疲れてるんだからアリサがお人形持ってきたらいいんじゃないかしら」
「えー? お部屋行かないの?」
「アリサの一番お気に入りのトマトちゃん持ってきたらヘレン喜ぶよ?」
「ちょっとママ! そのお名前いやだって言ったじゃん!」
「あら、どうして? アリサがママに『なんでもいいからお名前つけて!』ってお願いしたんでしょ? トマトちゃんだなんて、あの真っ赤な髪の毛にぴったりじゃない!」
「なんでもいいって言ってないし、アリサ、トマトきらいだもん!」
「え? トマトちゃん嫌いなの? あんなに可愛いのに……可哀想に、ママの子になるしかないわね……」
「ちがうの! もう! ママのイジワル!」
そう言って頬を膨らませたアリサは部屋を出て行った。かと思うと真っ赤な髪をした人形と大きなピンクのリボンの服を着た人形を抱えて入ってきた。躊躇わずに私のいるベットに座ると、メアリーさんには「トマトちゃん」を渡した。肩にかかったバックを逆さにすると、沢山のカップや皿が出てきた。スプーンにフォークまであり、全て人形が使うような小さなサイズだった。私たちにそれを分配しながらわざとらしい咳払いをし、アリサは真剣に説明し始めた。
「アリサは『ネネ』で、ママは『ルビー』、それでヘレンは『ヘレン』ね! これから『れでぃーのおちゃかい』をするからみんなれいぎ正しくね!」
「はーい」
慣れた様子のメアリーさんは人形の手を動かして、返事をする。私も『ヘレン』の手を挙げてアリサに答える。
「ルビー。このケーキおいしいですか?」
「美味しいです。ネネ様」
「ヘレンは?」
こくりと『ヘレン』を頷かせる。メアリーさんのように人形にフォークを持たせて、空の皿の上から掬うような動きをする。
「このケーキはすごいのですよ! ネネがひつじにおねがいして、お空をぴゅーんってとんで、もってきたの! とってもしんせんなんですよ!」
「ネネ様、『ひつじ』じゃなくて『しつじ』です」
「……」
「お羊さんも可愛いですよね」
「ま、まあしっていましたわ! わざとまちがえたの! ルビーがしってるかてすとしたの! そう! てすとですわ!」
「流石ネネ様! なんでもご存じなのね!」
「そ、そうですのよ! ところで、ききまして? となりのだんなさんがうきわしたらしいです」
「ネネ様、それは『うきわ』じゃなくて『うわき』です。そうですね。トマトも聞いたことがあります。あんな顔して浮気していただなんて本当にショックですー」
「ママ、トマトじゃなくてルビーね。おっほん! ほんとうですわ。イケメンだからネネもねらってたのに、なんていうくずおなんでしょう」
「……『くずお』なんて言葉どこで知ったの?」
「この前、バルトおじさんがお店の前で言われてましたわ」
「……」
得意げな顔をして宣言するアリサにメアリーさんは返す言葉がなかった。二人がなんともスムーズに話を進めるものだから、普段からこんな遊びをしているのだと感心した。私はあのケーキを食べる動作を繰り返しながら、二人の会話に耳を傾けていた。先ほどから無邪気に笑うアリサはカノンのようだった。ちょっとしたことで喜んで、悲しんで、とにかく表情を転々とさせる。どこまでも純粋で可愛らしい印象を人に与え続けてきた。アリサはカノンとは容姿は違っても、どこか同じ雰囲気を漂わせていると思った。
気づいたら会話は止まっていて、アリサは私をじっと見つめていた。私の顔に何かついているのだろうか。そう思っていた次の瞬間、アリサは目を潤ませ、悲しそうな顔して見せた。
「ヘレンお姉ちゃん……もしかしてアリサのこときらい?」
あまりにも突然のことに驚いた。先ほどまでご機嫌に笑っていた少女が一瞬にして泣きそうな顔になっているのだ。驚くのも無理はない。大きな青い瞳は涙でどんどん歪んでいく。子どもの慰め方など今まで縁がなかった。子どもだけでない。そもそも人の慰め方がわからない。カノンが泣いていた時だって、私は慰める間もなく蚊帳の外だった。侍女でも母上でも、側にいた人がカノンを慰めていた。カノンは図書館で私と一緒にいた時以外常に人がいたのだから、私の出る幕はなかっただろう。それなら、カノンは私と二人きりの時一度も泣いたことがないのだろうか。思えばそうだった気がする。私と図書館にいた時のカノンはいつも笑っていたから、やっぱり私は人を慰めたことがなかった。
どうすることもできずに戸惑っていると、メアリーさんはアリサを優しく宥めた。
「どうしたの? アリサ。泣かないで、どうしてそう思ったのか言ってごらん」
「だ、だって、ヘレンお姉ちゃん……全然アリサとお話ししないんだもん……」
メアリーさんの問いかけに、俯きながら呟くアリサ。その瞳は溢れ出てくる涙を抱えきれず、またしても大きな何粒かを取りこぼしていた。アリサの答えに私は途方に暮れてしまった。今はなぜか話せない状況にあるが、話せる状態でも私は無言を貫いていただろう。私によくしてくれた人であるとはいえ、やはりよく知らない人との会話は得意でない。そのまま話通してくれた方が楽に思える。溢れてしまった涙をメアリーさんが拭い、優しい音色でアリサに言う。
「ごめんね。ママが言ってなかったのがいけないわ。あのね、ヘレンお姉ちゃんは悪い魔女に意地悪されて、声を取られちゃったんだって。ヘレンお姉ちゃんは今話したくても話せなくなっちゃったの。でもお母さんが悪い魔女からヘレンお姉ちゃんのこと助けたから声はすぐに戻ってくるはずよ。ヘレンお姉ちゃんが話せるようになるまでアリサがいっぱいお話ししてあげてね」
「わるいまじょ……はっ! たしかに! ヘレンお姉ちゃんこんなきれいだもん! おひめさまだったんでしょ! 前にアリサ絵本で読んだことあるよ! わるいまじょはとってもいじわるだからおひめさまにイタズラするんだって! ヘレンお姉ちゃんまじょこわかった……? でももう大丈夫だよ! わるいまじょはアリサがたおしてあげるから、安心してアリサのお姉ちゃんになってね! アリサがヘレンお姉ちゃんがさびしくならないようにいっぱいお話ししてあげる!」
魔女だなんて言い訳をするりと信じ込んだアリサはまた生き生きと私に話しかけた。否定もできなかったが、それをする余地も与えず怒涛に話を続ける。メアリーさんは後ろで満足げに頷いて、アリサの暴走を止める気配がない。
だが、アリサの話の中に気になる言葉があった。「お姫様」だ。かつてカノンがなりたかった、いや、なった「お姫様」に私がなる資格があるのだろうか。そんなものないに決まっている。アリサはどうやら私という「お姉ちゃん」を気に入っているようだが、私は「お姫様」にまではなれない。なる勇気などなかった。なぜか生き残っている私が「お姫様」になる。それはどれほど罪深いことか、アリサにはわからないだろう。
思考がだんだん絡まっていく。頭の中からカノンたちの声が聞こえてくるような気がした。
お前のせいで……
あなたのせいで……
上様のせいで……
話し続けるアリサの声が遠くなっていく。体の力がどっと抜けたような気がした。どうやら私は再び眠りにつく。そのまま倒れ込んだ私をメアリーさんが抱えるのがわかった。再びあのベットに運ばれて、アリサを連れて部屋を出たのだと扉の閉まる音が知らせてくれた。
「お姫様」。それは今の私にとって呪いの言葉になりそうだ。カノンが欲しかった姿を持って私はこれから生きていくのだろうか。そもそも私は生きていても良い存在なのだろうか。国ではなく自分の欲望のために「女」を選び、皆を……。
もしかしたらあれは夢だったのではないだろうか。
今頃海底に皆はいつも通りの日常を過ごしているのかもしれない。私が波に運ばれてメアリーさんたちに拾われただけで、海底では皆きっと私のことを探しているかもしれない。忘れていてもいい。恨まれててもいい。それだけの選択をしたから……。誰もがわかっていた正解を選べなかったから、恨まれるなんて当たり前だ。ただ、カノンのせいにしないで欲しい。カノンは何も悪くなくて、全ての責任は私にある。あれだけ私によくしていたカノンを裏切った私が極悪人だ。アリサも言っていた。「悪い魔女はとっても意地悪だからお姫様にイタズラする」と。カノンは皆の「お姫様」なのだから、それに対する私は「悪い魔女」だ。だが、「魔女」になることも大層なことだ。海では「魔女」は神に次いでの存在だ。そんな「魔女」に声も出せない私はなれない。結局私は何にもなれない。アリサがくれた「お姉ちゃん」だっていつまで演じ続けられるだろうか。すぐに失望されて追い出される未来が容易に想像できる。
だがなんだっていい。
カノンが生きているなら……皆がまだ生きているなら……。それだけでいいんだ。
全知全能の海よ。どうかあの夜を夢にしてください。今が夢でもいい。まだ性別を乞う前の悪夢でもいい。どうかまだ何も起こっていない夜たちに私を戻してください。そうすれば私はきっと迷わず「男」を選ぶ。だから早く私をこの悪夢から醒まさせてください。
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