第8話 天使さま
歌姫の歌がなかなか聞こえない。いつもは私が目覚める頃に歌い出すと言うのにどうしたのだろうか。カノンの毒舌に心を病ませたのだろうか。噂では浪花の実が好物だそうだ。父上に海面に行く許可を得て、見舞いの品としよう。カノンも連れてちゃんと謝罪しに行こう。おそらくカノンは口を窄ませて文句を言いながらも大人しく見舞いに行ってくれるだろう。そうと決まれば、早く起きて父上を訪ねなければ……。カノンは今日もなかなか起きられないだろう。カノンを起こすのもひと仕事になりそうだ……。
「……カノン……朝だよ。起きなさい」
まだ開ききっていない目を擦り、習慣的に横にいるはずのカノンを起こす。だが、どれだけ手で探ってもカノンはいない。
「……カノン?」
カノンはいなかった。ここはいつもの繊細なレースが編まれた天蓋付きのベットではなかった。すぐに海水が染み渡って使い物にならなそうな木材でできている。体を起こすとベットはわかりやすい音を立てた。
カノンはいないのか……。そうだ……カノンは、皆は、もう……。夢じゃ……なかったのか……。
自覚すると、目尻に熱が溜まっていく。あの夜は現実だった。もう戻れない過去になってしまった。手で顔を覆う。顔に触れる感じが違う。ここは海でもなかった。温かいものが両手の隙から溢れていく。止まらない。声も出ない。私が私でなければ良いのに……。
窓から海では聞かない何かの声がする。カーテンを開けて外を覗く。鳥の声だった。窓辺に育てられた小さく黄色い花を突いている。鳩と言う種類だろう。いつか聞いたことのある単語だ。真っ白な姿は平和の象徴だそうだ。
鳥……。ここは陸なのか……。
窓を開け、鳩をもっと間近で見ようと思った。内開きになっていた窓に驚いた鳩たちは飛んでしまった。釣られて身を乗り出す。街は人で溢れかえっていた。白真珠がなくても街は明るかった。
「いらっしゃい! 見てかねえか? 新鮮なやつが入ったばかりだよ! 甘くて美味しいぞ!」
「まあ! 真っ赤なりんご! おいくらです?」
「おっ、嬢ちゃん、お目が高いねえ。これは昨日リリアの森で取れたやつだ! 三リルでどうだ」
「リリアの森!? それはすごいですね。あそこは入るのも一苦労と聞きますよ。一個くださいな」
「それきた」
気前よくりんごとやらを売っていた男と目が合った。男はりんごを高く掲げ、私に向かって大きな声で叫んだ。
「綺麗なお嬢ちゃん! あんたも一つどうだ?」
声がかけられるとは思わなかった。驚いた私は急いで窓を閉めて、男に背を向けた。陸の人たちはこんなにも活発なのか。私はこんなところでこれから生活できるか心配になってきた。
部屋を見渡す。私の部屋とはまるで違った光景をしていた。豪華なドレッサーもなく、大きな本棚もない。どこも損傷がある家具ばかりだった。メアリーさんたちはそこまで裕福な家ではないのだろう。それでも私とアリサを引き取るだなんてやはり救いようのないお人よしのようだ。
一つ大きな布で被されたものが気になる。私の身長よりも高いそれは布を取る。鏡だった。海ではここまで大きな鏡はなかなか見られない。鏡は私の全身を映していた。私はまだあの白いキトンを着ていた。カノンと同じ容姿であるはずの顔が映っている。「女」を選んで、「お姫様」となったカノンはこんな姿をしているのだと考えたら、また涙が流れ出してきた。「女」になった者の左胸には花のような紋章が浮かび上がってくる。もちろん「男」を選べば、また違う紋章となって右胸に出る。キトンを脱いで、胸にあるはずの紋章を確認する。
……ない? ……ない! ない! どこにもないじゃないか!
左胸には何もなかった。右胸にも何もなかった。まるで儀式をしていない頃の私と変わりなかった。薄くて見えないのだろうか。どちらの胸をいくら擦ってもあるのは何もない肌だけ。背中、首、腕、足。体のあらゆるところを確認しても何も見当たらない。
どうしてだ。儀式は成功してないのか。私は「女」になったのではなかったのか。だからカノンたちは呪われて……。私は「女」にも「男」にもなりきれず、ただ皆を呪っただけ……?
現実はどこまでも残酷だった。受け入れた事実を一瞬にして裏切ってくる。
崩れた自分を鏡と通して見る。青白い顔に、充血した目。乾燥した唇は割れていた。こんなのがカノンなわけがない。カノンはもっと明るくて、自信に溢れていている。こんなやつとは真逆の存在にいる。カノンと同じであると思うのはどれほど烏滸がましいものかを知った。
部屋の外からあの声たちが聞こえてくる。階段を隔てた一階にいても、二人の声はよく響いていた。
「ねえ、ママ! ヘレンお姉ちゃんってもう起きたかな! 今日アリサ、ヘレンお姉ちゃんとお出かけしたい!」
「そうね。アリサが朝ご飯をしっかり良い子で食べきったら良いわよ。ほら、皿の端によけてないで、ちゃんとブロッコリーも食べなさい!」
「うっ! アリサこれ好きじゃないもん!」
「じゃあ、ヘレンお姉ちゃんのことも守ってあげられないわね。ブロッコリー食べない子は悪い魔女にすぐ捕まっちゃうのよ」
「えー! なんで!? じゃあ、アリサ……た……食べるもん……」
「おお、大きなお口ですね……これならしっかりヘレンお姉ちゃんと一緒にお出かけしても良いでしょう……わたあめも買っていいわよ」
「ほんとっ! じゃ、アリサいっぱいブロッコリー食べる!」
「うんうん。えらいえらい!」
アリサは私を「ヘレンお姉ちゃん」と呼ぶ。だが、私はもう私が誰なのかがわからない。
お姉ちゃんに……なれないかもしれない……。
そう思った。
鏡に映る「私」が話しかけてくる。
まるでバケモノだな。惨めすぎて笑えてくる。アリサにお前が「女」でも「男」でもないバケモノだって知られたら、きっと泣かれてしまうよ。あんなにも「姉」の存在を喜んでいたのに、また裏切るのか。全くお前はどうしようもない悪党だな。
「私」は不気味に笑っている。
失望される前にあの海に戻ってしまえ。暗く冷たい海の底でひっそりと息をしていた方がお似合いだ。お前は人と関われない。その声だって実は自分で望んでいたことなんじゃないのか? もう話せるんじゃないのか? 誰とも話したくないのに、誰からも助けてもらいたいなんて、お前は昔から変わらないな。なんて図々しい奴なんだ。
そうだ。私はアリサたちと関わらない方がいいに決まっている。声は……もう出る気がする。早く海に戻ろう。彼女たちとの間に造った壁が溶けてしまう前に、離れなければ苦しむのは私だ。
「ヘレンお姉ちゃん! もうおきてる? アリサだよ!」
小さなノックに続き、アリサが入ってくる。
「わあ! ヘレンお姉ちゃん起きてる! でもすっぽんぽん! さむくないの?」
「こら! アリサ! 勝手に入っちゃダメでしょ? ノックをしたら、返事を待たないと……」
追いかけてきたメアリーさんも入ってくる。
「あ、あ、の……」
言葉がつっかかる。
「わ、私はもう……で、出ていく! そ、その、手当てを、あ、ありがとう……で、でももう、治ったから大丈夫だ」
やっとのことで言い切れた。
「えー! ヘレンお姉ちゃん、アリサのお姉ちゃんになるんじゃないの? 出ていかないでよ! わるいまじょにつかまっちゃうよ!」
「……ヘレン。少しお話ししよっか。アリサ、自分で遊んできて」
「まあたアリサだけなかまはずれ? やだあ!」
「ヘレンお姉ちゃんとお出かけしたくないの?」
「し、したいけど……」
「じゃあ、家の前にいるバルトおじさんのお店でりんご買ってきてくれる? あとでヘレンお姉ちゃんと一緒にりんごあめ作ろっか」
「ほんとっ! いいよ! いいよ! アリサ行ってくる! あ! おさいふどこ?」
「パンのかごよ。気をつけていってらっしゃい!」
「はーい!」
元気よく返事しながらアリサは嬉しそうに階段を駆けていく。
「ね、ほら見たでしょ? アリサ本当にヘレンがお姉ちゃんになってくれるのが嬉しいのよ? だから迷惑だなんて思わないで、ここにいていいのよ?」
身につけていたストールを私に被せ、ゆっくりと彼女は話す。
「ち、違う。私は女じゃないんだ」
はっきりと断るしかないと思い、被せるように言う。彼女は驚いた顔をする。望んでいた「女」でなく、「お姉ちゃん」にもなれない私をこのまま居候させる理由がないだろう。優しくしてくれた彼女たちに拒絶されるのは嫌な気がした。でも事実を言わなければ、私は彼女も未練がましい自分のことも説得できずにいるだろう。
「あら。綺麗な顔をしていたから女の子だと思ってたのに、綺麗な男の子だったの? 素敵ね!」
予想外の返事が返ってきて、私は戸惑う。
「そ、そうでもなくて、その……」
今の私を表せる語彙が見つからない。性別を乞う前の人魚は「子ども」で、大人になった人魚は「女」と「男」になる。では大人になった私はそのどちらと言える? どちらでもない。だからこの世にいてはならない存在なんだ。
「……わ、私は! その……男でも女でもないんだ! だからどうか見捨ててくれ! こんなバケモノと一緒にいるなんて恥をかく! 不幸になる!」
「……ヘレンは自分がバケモノで恥だと思うの?」
「……そ、そうだ」
「確かに女の子でも男の子でもないなんて聞いたことないし、不思議に思うけれど、ヘレンはバケモノには見えないわ。こんな綺麗なんだからそれはきっと天使様かお人形さんって言われた方が納得するわよ」
天使など見たことはないが、そんな存在は知っている。白い翼を生やしたそれに私が近しいと言うのなら、天使はきっとそこまでまともな存在でもないのだろう。
「それに恥をかくだなんてとんでもない! こんな綺麗な子が私の子になってくれるなら、逆に神様からの贈り物だと思うわ! 子どもとは無縁な一生だと思ってたのに、アリサがやってきた時からね……本当に今まで楽しかったの。だからヘレンが私の子になってくれるならメアリーさんはもっと幸せになれると思うわ!」
「……」
「私はね。ほら、この通り! お金がなくて、勉強もまともにしたことないから、ヘレンがなんでそんなに悩んでるのかわからないけどね。メアリーさんは思うの! ヘレンはそのままでも十分素敵よ! 女の子になりたくても、男の子になりたくても、好きなように言えばいいわ! どっちにもなれてお得だと思わない? あら、メアリーさんなんて素晴らしいことに気づいたんでしょう! ヘレンは女の子か男の子になりたい?」
どうだろう。誰かにそんなこと質問されるのは初めてだった。私の意見のほとんどを肯定してくれていたカノンでさえ、私が「男」になると思っていたのだ。カノンは「女」を選ぶのだから、私は「男」を選ぶ。皆がそう思ってあの日を迎えていたはずだ。だから他人に言われて自分の意思を見つけるなんて初めてのことだった。
「……わからない」
私の答えはわからないだった。「女」になる決意もなく、「男」になる勇気もない。どうしても弱虫な私は過去の自分を許すことを認めることもできない。だから、私の答えはどちらでもない。そう答えるしかなかった。
「そっか。でも性別なんてあってもなくても一緒よ。服を着ればそんなの隠れてしまうわ。アリサがよくお人形さんにお着替えしているのと同じで、スカートでもズボンでも好きなの履けばいいわ! ヘレンだもの! きっとどっちも似合うわ! メアリーさんの愛は大きいのよ! どんなアリサでもヘレンでも、まとめて全部愛してあげられるわ!」
「……」
どうやらこの人には何を言っても無駄らしい。果たしてメアリーさんには私がどのように見えているのだろうか。ここまで固い決意を他人にさせられるほどに素晴らしい私に、私ですらまだ出会ったことがなかったのに。
「そうね……でも困ったわね……」
少しの沈黙を経てメアリーさんは真剣な顔をして私に問いかけた。
「……アリサはヘレンのことなんて呼べばいいと思う? ヘレンでいいのかしら……」
「え……?」
「何驚いた顔してるのよ! とっても重大なことだわ! ヘレン! あなたはもう私から逃げられないわ。あなたを見つけた瞬間から、あなたはもうメアリーさんの子って決まっているのよ。……あ、それともやっぱり元の家族がいいのかしら。……そうよね……やっぱり……メアリーさんの子にはね……はあ……」
「い、いや! その……」
まだ何も言っていないのにもう落ちかけているメアリーさんの言葉は私の心にすとんと住み着いた。自分でも受け入れられない自分を彼女は受け入れた。まだ出会って間もないのに、どうしてこんなにも優しくしてくれるのだろうか。拒絶を期待していると言うのに、家族という言葉はどこまでも暖かい。
返す言葉に困ったいると、メアリーさんは悪戯っぽそうな笑みを浮かべてこちらを見る。
窓の外から声が聞こえる。
「おお! アリサちゃん! 一人でお使いかい?」
「そうだよ! まっ赤なりんごを二つください! バルトおじさん!」
「アリサちゃん一人で二つ食べるのか? 今日はメアリーさん太っ腹だねえ」
「ううん! アリサとヘレンお姉ちゃんで食べるんだよ!」
「ヘレンお姉ちゃん? ……ああ、さっきそこの窓から覗いていた子かい? 綺麗な子だったよ」
「でしょ! ヘレンお姉ちゃんお人形さんみたいにきれいなの! でもアリサのお姉ちゃんだからね! とっちゃダメだよ!」
「とるわけないじゃねえか! お姉ちゃんできてよかったな! 今度連れきな! サービスしてやんよ!」
「もっちろん! またね! バルトおじさん!」
アリサの声が響いてくる。
「ほら、早く下行かないとアリサがみんなにヘレンのことお姉ちゃんって自慢しちゃうよ。アリサにもヘレンって呼んでもらえるように言わないと、そろそろあの子の口癖になりそうじゃない? 『ヘレンお姉ちゃん』って」
メアリーさんに手を引かれながら部屋を出る。階段を降りた先にちょうど扉を開いてアリサが帰ってくる。
「おかえり。アリサ。ちゃんとりんご買えた?」
「うん! そ、それでヘレンお姉ちゃん……どっか行っちゃわない?」
弱々しくきいてくるアリサは私をちらちらと見てくる。メアリーさんは私の背中を押した。
「どうするか、アリサに言ってごらん」
「……これからよろしく……」
「ほんとっ! いっしょにいてくれる?」
「ただし、ヘレンお姉ちゃんじゃないわよ? ヘレンって呼んであげてね」
「どうして?」
「だってヘレンは女の子じゃないもの」
「男の子なの!?」
「そうでもないわ。天使様なの」
「えー! 天使さまなの!? 天使さまなのにアリサのおねえ……いやえっと、家ぞくになってくれるの!? すごいね!」
「そうよ。これもアリサがいい子にしてたからよ」
「すごいすごい! これからよろしくね! ヘレン!」
嬉しそうに抱きついてくるアリサとなぜか誇らしげなメアリーさん。こんな二人に囲まれてこれから生活していく私はなんて贅沢なんだと思った。
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