第12話 「アセビ」

 次の日の朝、私はいつものように騒がしい鳥の歌声で目を覚ました。この数年で私は歌姫の歌でなくても自然と目が覚めるようになった。急いで起きて、一階に向かう。


 今日はメアリーさんの店、「アセビ」の営業日だ。庭に植えられているあの小さな木が「アセビ」と言うのだそう。この前もほんのりと桃色掛かった白い花が連なって咲いていた。この店は食堂として運営しており、ここ数年の売上でついに赤字から脱したのだ。その「アセビ」で私もアリサも働いている。食事を運んだり、皿を洗ったり。今までは全く触れてこなかったこの作業たちに慣れるには結構な時間を要したが、今は難なくこなすことができている。


 いつも通り店の中を動き回っていると、昨日の大男がやってきた。昨日の軍服ではなく、白いシャツに黒いズボンという質素な装いをしていた。服装だけ見ればどこにでもいそうな男だが、その傷のついた顔は相変わらず険しく、右足の裾は硬く結ばれており、松葉杖をついていた。何も言わずに席に座り、アリサが注文を聞きにいく。


「……注文は?」


「すまない。メアリーはいるか?」


「いません。ご飯食べにきたんじゃないなら、帰ってください」


「そうか。ならこれを一つお願いできるか?」


「それならもう売り切れです」


「……では、これは?」


「それもないです」


「……」


 沈黙が流れる。アリサはむすっとした顔で彼の一言一言をバッサリと切り捨てる。


「……では水なら一杯いただけるか?」


「……お待ちください」


 明らかに嫌そうな顔をして水を渡す。


「それ飲んだら帰ってください」


 アリサはついにそう言った。大男は何も言わない。怒るとも悲しむとでもなく、ただそこに静かに座っていた。


 厨房の方からメアリーさんの声が聞こえる。


「ヘレン! これ運んでちょうだい!」


 大男は声がしたこちらを向いた。


「すまない。閉店後にまた来ると伝えてくれないか?」


「……」


「ありがとう」


 メアリーさんが厨房から出てくる前に彼はそう言って店を出た。伝言を頼まれたアリサはそこに佇むだけで何も言わない。大男の背中が見えなくなっても動かないものだから心配になった。


「……アリサ?」


「……」


 メアリーさんが厨房から出てくる。


「もう、ヘレン。運んでって……ってあら、アリサ、どうしたの?」


「……」


 メアリーさんが話しかけても返事しないとは、アリサは相当落ち込んでいるようだ。


「さっき昨日のあの人が来てた……」


「……そう。アリサ、あとでちゃんと話し合お? だから今はまだお店の手伝いしてくれる?」


「……うん」


 その後も、なかなか気分が上がらずにアリサは注文を聞き回っていた。おかげで常連客には心配されている。


「おお、アリサちゃん! 今日は元気がねえな! どうした?」


「別に……」


「まあまあ、そんなこと言わずに話してごらんよ」


「何でもない……」


「ヘレンと喧嘩でもしたか?」


「ヘレンと喧嘩なんてしたことないし……」


「じゃあフィルか?」


「……フィルなんてまだ帰ってきてないよ」


「もうすぐ帰ってくるんだろ? 手紙でやりとりしてんじゃねえのか?」


「……知らない」


「……そ、そうか」


 いつもは一言話しかけるだけで、延々に続く返事が返ってくるのに、と皆私にまで話しかける。


「なあ、ヘレン。どうしたんだ? やっぱり喧嘩か?」


「私が聞きたいくらいだ……」


 私とてこの状態が続くアリサを見たことがない。心配はしているものだが、私が何かをしたところで直るような機嫌でもないだろう。根本的な原因を解決しない限りアリサの機嫌はきっとこのままなのだ。


「おっと! スプーンを落としちまったぜ」


「……またお前か」


 この最近で見慣れた顔をしている男は相変わらずだった。太々しい態度で彼はいつもの言い訳を始めた。


「なんだよー。うっかり手を滑らせたんだってば」


「お前は店に来るたびに手が滑るのか?」


「ま、まあそんなこともあるだろ! で、アリサはどうしたんだ?」


「知らないと言ってるだろ」


「冷たいなー。慰めてやれよ。妹だろ?」


「……どうすればいい?」


「『大丈夫か?』って優しくきいてやんだよ」


「どう見ても大丈夫じゃないのは分かってるじゃないか」


「きいてやるのが大事なんだよ」


「……そうか」


「それかハグしてやったらどうだ? アリサはヘレンのこと大好きなんだろ?」


「あの雰囲気のアリサに近づくのか?」


「……そ、そうだな。じゃあそっとしてやるとか?」


「……」


「呆れた目で見ないでくれよ」


「……早く出ろ。客が並んでる」


「俺も客だろ?」


「コーヒー一杯で二時間も居座ってるやつは客じゃない」


「し、仕方ないだろ! 金ねえんだよ! この前母ちゃんに財布取り上げられたんだよ! 遊びすぎだって!」


「私には関係のないことだ」


「じゃ、じゃあ! コーヒーもう一杯頼む!」


「早く帰れ」


 この前からやってきてはコーヒーやらサラダやら、とにかく一番安いものを頼んでは長時間「アセビ」に座り続ける男には心底呆れた。金がないのなら、家にいれば良いもののどうして外に出るのだろうか。しかも店に来て毎回と言っていいほど何かしら物を落としている。壊れにくいスプーンやフォークを落としているとはいえ、毎回替えを持っていかなければならない私からするといい迷惑だ。昼は「アセビ」も繁盛する。随分早くからここに居続ける男のせいで、席が一つ減るのだ。何がしたいのかわからないが、アリサの言うように食事をしに来たのでないなら帰って欲しい。


「はっ! リンドル、まぁたヘレンにちょっかいかけてんのか?」


「ヘレンは無理だって! 諦めろ!」


「悲しくなるなよ! ヘレンは誰にだってあの態度なんだからな!」


「金がねえんならヘレンに迷惑かけんなよ!」


「そうだそうだ! 大人しく帰るんだな!」


「俺たちがお前の分も食べといてやるよ! ヘレン! 追加ー! 俺たちはリンドルみてえにコーヒー一杯だけじゃねえから、安心しな!」


「リンドルと違って客だからな!」


「うっせー!」


 知り合いもいるなら同じ席に座ればよかっただろうと思った。仲間からの嘲笑に顔を赤くし、結局彼はそのまま店を出ていった。しばらく「アセビ」には来なくなるだろうが、これを機に反省してほしいものだ。


 そうこうしているうちにやっと閉店の時間になった。閉店の準備も終えた頃に窓に大きな影が映った。店の外を覗くとやはり昼間の大男だった。メアリーさんに中に連れてきてと言われ、アリサは大男に話しかける。


「……どうぞ」


「ありがとう」


 大男を招き入れたアリサは相変わらずの顔をしていてメアリーさんの後ろに隠れる。


「この子達は私の子供よ」


「そうか」


「可愛いでしょ」


「……」


「あなたのことは本当に感謝してるわ」


「そうか」


「だからあなたには幸せになってほしいの」


「……そうか」


「あなたが責任感強い人だっていうのは知ってるわ。でもほら、私もうこんな元気だし、両親の言葉なんて気にしなくてもいいのよ」


「……」


「ダエル少将。もうあなたも過去に囚われてなくてもいいんじゃない? 幸せになってきてよ」


「……」


 沈黙が続く。誰も言葉を発さず、ダエル少将と呼ばれた男はメアリーさんをただ凝視している。


「一言だけ言わせてもらう」


 沈黙を破ったのは恐ろしく低い声だった。


「私は約束を果たしに来た。それだけだ」


 そう言って振り返えもせず、出ていってしまった。またしても沈黙が訪れる。私は沈黙に慣れているが、いつもは騒がしいこの二人まで静かだと不思議な感覚がしてたまらなかった。


「ママ」


 アリサはメアリーさんに抱きついたまま口を開ける。


「あの人がママが待ってた人……?」


「ええ、そうよ」


「すごく遅刻して来たね……あの木、もうママよりも大きいよ」


「でも、来てくれただけでも嬉しいわ」


「……ママってバカだね」


「もう! そう言わないでちょうだい」


「……ヘレンもそう思うよね?」


「……そうかもな」


 メアリーさんはよく眠れないアリサに色々な話をしていた。私も巻き込まれてよく聞いた話だ。


 昔、ある女の子がいた。その女の子は体が弱く、毎日部屋から出られなかった。でも、女の子は寂しくなかった。優しい両親と親切な幼馴染がいたからだ。幼馴染の男の子は話すのが得意ではなかったが、その分女の子は誰よりもお喋りだった。女の子は毎日男の子に願い事をした。紙とんぼを飛ばしてみたい。綺麗なお洋服が着たい。美味しいものが食べたい。可愛いお人形が欲しい。女の子の小さな願い事を男の子はできる限り叶えてやっていた。


 しかし、ある日女の子の両親は重い病気にかかってしまった。医者からはもう治らないでしょうと言われてしまい、女の子と男の子は悲しかった。家族のいない男の子にとって女の子の両親は彼の親同然の存在であった。女の子の両親は永遠の眠りにつく前に男の子に言った。


「彼女をお願い」


 そして次の日の朝には帰らぬ人となってしまった。女の子と男の子は沢山泣いた。とても悲しかった。


 そこから年月は経ち、男の子はやっぱりまだ女の子の側にいた。男の子は頑張った。体の弱い女の子が楽しく過ごせるように色々なところで働き、女の子は彼に感謝していた。


 それでも、ある日ついに女の子は重い病気にかかってしまう。幸いなことにそれは彼女の両親と同じ不治の病ではなかったが、それにかかる医療費はとても二人に払えるものではなかった。沢山の人に借金をしてまでようやく医療費は整った。女の子は無事治療を受けられ、ベットから離れられるようになった。だが、二人に待っていた生活は貧しく苦しいものであった。毎日一食分のパンが食べられるかどうかの危うい生活をしながらも、男の子は毎日働きに出るしかなかった。やっとのことで得た給料も全て借金の返済に充てることしかできなく、彼らの生活は一様に改善することができなかった。


 男の子は考えに考え、ついに決断した。彼は兵隊になることにしたのだ。そうすれば今の給料よりも何倍も稼ぐことができるのだという。女の子は彼を止めようとしたが、男の子の決心は揺らがなかった。あまりにも悲しむ女の子を慰めるために、男の子はある約束をした。


「この木の丈があなたの身長に届く頃に、私は戻ってくる」


 一本の枝を家の前に植え、男の子は女の子の元を離れた。


 女の子は早くこの木が自分の背に届くように毎日毎日水やりをした。女の子は男の子が戦争に参加していると新聞で知ると、眠れない夜が続いた。それでも頑張ってくれている男の子を信じて、毎日この木に祈りを捧げていた。


 女の子の頑張りもあって、この木はすくすく育ち、ついに女の子と同じ背丈になった。日々木を眺めて、男の子の帰りを、今か今かと待ち侘びていた女の子だったが、結局、男の子の顔を忘れてしまうことになっても、男の子は帰ってこなかった。女の子は悲しかったが、男の子のことを信じ続けることしかできなかった。幼い頃から男の子は女の子のいろんな願い事を叶えてきたが、最後の願い事だけは叶えてくれなかった。こうして女の子は忘る人を待ち、いつの間にか自分も帰らぬ人となってしまうのだった。


 メアリーさんはこの女の子と男の子が誰なのか一度も言及したことがないが、これはきっと彼女自身の物語なのだと私とアリサはわかった。メアリーさんの部屋に忍んだアリサが、戦争に関する新聞の記事を見つけたことがあるのだそう。どの新聞にも同じく「ダエル」という名前が出て来ていたため、アリサも予想はついていた。そして最新の記事はその「ダエル」とある貴族令嬢との婚約についてだった。あの時のアリサの曇った表情は忘れられない。怒りきれないメアリーさんのために、アリサは怒っていた。


「アリサ、嘘つきは嫌い」


 だからアリサは本当にあのダエルという男が嫌いなのだろう。嘘つきという言葉は私にも深く刺さった。アリサのこんな冷たい態度がいつか私にも向けられるかもしれないと思うと、胸のあたりが痛くなる。


 明日になってもあの男はまだここにくるのだろうか。アリサがあの人と喧嘩にならないことを祈るしかない。

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