第14話 雨
「……」
会話が続かない。この男は考えなしに私を引き留めたのだろうか。どう見ても知らない人だ。この街には六年も住んでいる。名前は知らずともほとんどの人の顔は認識しているつもりだ。だからここで私を引き止めるほどの知り合いならば、きっと顔見知りぐらいではあるはずだ。人違いだと気づいたが、ここまで伸びてきた手を戻すに戻せなくなったのではないだろうか。その可能性を考えて納得した。人と会話するのが苦手な私だからこそ、とても共感できる。今、私たちの間にはとても気まずい雰囲気が流れている。そして彼の方がきっとそう感じている。私は「アセビ」の開店前までにアリサと醤油を連れて帰らなければならないのだ。ここで立ち止まっている暇もない。仕方がない。ここは私が口を開けるしかない。
「このくらいの女の子を見かけなかったか?」
アリサの身長ぐらいに手を空中で止める。
「……え?」
「栗色の長い髪を二つ結びにした女の子だ。今日は確か水色のワンピースを着ている。見たか?」
「……見たかもしれない。綺麗な青い目をした子?」
「そうだ」
本当に知っているとは思わなかった。意外と口に出して見るものなのだと感心した。
「たぶん向こう側の雑貨屋にまだいるよ。さっきすれ違ったんだ」
「そうか。ありがとう。もう行っていいか? 急いでるんだ」
「あ、ああ。急に掴んで悪かったよ」
「……こちらこそ」
肩に置かれていた手はとうになくなっており、私は今度こそ前へ進めた。無事に会話を終わらせることができて良かった。自分から話しかけたとはいえ、随分とスムーズな会話ができたと感心した。変な見た目ではあったが、何か事情があるだけで、普通な人だったかもしれない。さっさと先に進んでしまえばいいのに、私はなぜか後ろへ振り向いてしまった。
「今日は雨が降るよ」
クロークの下と目も合った気がした。綺麗な翡翠色が輝いていた。あの男はあの場所から動いていなかった。まだこちらを向いている。思わず空を見上げた。真っ白な雲はところどころに散らばっているが、空は青かった。この青が灰に変わるなんてとても想像ができない。再び男の方を見るが、彼はもうそこにはいなかった。全く不思議なものだ。だが、雨が降るらしい。こんな空でも傘まで持っている彼がそう言うのだ。きっとそうなのかもしれない。なぜかそう信じてしまった。
あの男が言っていた雑貨屋へと向かった。中に入ると棚の商品をじっと見つめているアリサがいた。
「アリサ」
できるだけ優しく呼んだつもりだったが、アリサはやっぱり驚いてしまった。
「え? へ、ヘレン!?」
「何しているんだ?」
「え、いやあ? 別に……なんでも……」
「やることは?」
「……」
こんなにアリサとの会話で途切れたことはなかった。私が話さなくてもアリサはずっと喋っている。それがいつもの光景なはずだ。だが、今のアリサは話すどころか、このまま泣き出してしまいそうだった。
「どうしたんだ?」
「……わかんない。でも、なんか、どうしても……」
だんだんと声が震え出して、アリサはとうとう泣き出してしまった。昔とは違って随分と静かに泣くようになった。私はそっとアリサを抱きしめた。メアリーさんが言っていたのだ。誰かが泣いていたら抱きしめてあげればいいと。
「……メアリーさんの誕生日プレゼント買いに来たのか?」
アリサが見ていた棚にあるには、この前メアリーさんが綺麗だと言っていた髪飾りだった。金色のレースで縁取られた大きな白のリボンには、真珠を模したと思われるものが散りばめられている。私に埋まっているアリサは涙声で少しずつ話す。
「ア、アリサ、せっかくこのリボンママにあげるって、決めたのに……こ、今年も、アリサが一番ママを、喜ばせるって、決めてたのに……今年はアリサが一番じゃなくなっちゃう!」
「どうして?」
「だって、あの人がいるじゃん!」
「……ダエル?」
「そうだよ! あの人が帰ってきたぐらいでママあんなに嬉しそうなんだよ! それならあの人がママに……ママに、かぼちゃあげても、ママ、絶対喜ぶじゃん! アリサが選んだプレゼントより喜んじゃう!」
嫌いな食べ物があり溢れるアリサとは違って、メアリーさんは基本的になんでも食べては、美味しいと言っているような人だ。だけど、かぼちゃだけは「なんかあの食感がどうしても嫌でね……」と言って、渋い顔をして食べていた。嫌とは言っていたが、食べれないわけではない。それでもいつも自分にこれ食べなさい、あれ食べなさいと言っていたメアリーさんの発言にあまりにも驚いたアリサは、「ママが食べれないものをアリサが食べれたらかっこいいよね!?」と言って、どんな時でもかぼちゃだけは残さないようになった。
「ダエルがメアリーさんに誕生日プレゼントをあげるとは限らないだろ?」
「でもでも! そうしたらママは自分の一番欲しいものもらえなくなるよ!? それもやだあ!」
「そうか……? じ、じゃあ、メアリーさんの一番欲しいものをアリサがあげれば……」
「だからママの一番欲しいものってきっとあの人があげたものなんだよ! ママ、いっつもあれもこれもいらないっていうのに、この前、このリボンを立ち止まって、七秒も見つめたんだよ!? ママの一番欲しいもの、せっかくアリサが見つけたって思ったのに、これじゃあアリサ、ママの二番目になっちゃう!」
毎年のメアリーさんの誕生日では、アリサのプレゼントが一番凝っている。誕生日カードにケーキに花束、一昨年からは風船も追加して、それに自分で選んだプレゼントをメアリーさんに贈る。プレゼント箱だって自分で描いた絵を散りばめて、可愛らしく装飾する。私もプレゼントを選んで、メアリーさんに贈ってはいるが、アリサほどではなかった。
「ア、アリサもこんな気持ちで、ママにプレゼント、選びたくなかったけど、考えれば考えるほど悲しくなっちゃって……」
「うん」
「だってフィ、フィルもさ、帰ってきて、……なんかあのままあそこにいたら、フィルに八つ当たりしそうだったの! フィルのことなんか絶対に許さないけど、今ならあの人の分の怒りもフィルにぶつけちゃいそう!」
「そ、そうか。アリサなりにフィルに気遣ったんだな。えらいじゃないか」
「そうなのお! アリサはえらいの! えらいのに二番目になっちゃう! やだよお! 悔しい!」
せっかく消えていた涙がまた舞い戻ってきた。
「ヘレンの選んだプレゼントも素敵だけど、アリサのが一番だね!」と。いつの日かそう言われた言葉を思い出した。その日になれば誰にも一番を譲らないアリサがこんなにも泣き崩れてしまうなんて、よっぽどダエルを脅威と感じたのだろう。これでは私がどんなに説得を試みても、アリサは納得しないだろう。
「ダエルがプレゼント贈るかわからないが、アリサのプレゼントの方がメアリーさんもきっと喜ぶと思うぞ。今は満足したプレゼントを選べなくても、メアリーさんの誕生日はまだ先なんだ。もう少し悩んでみたらどうだ?」
「う、うん……」
「それに今日は雨が降るらしんだ」
「雨?」
「そう見えないけど、そう言われたんだ」
「誰に?」
「さあ? 知らない人だ」
「何それ。ヘレンらしくない」
「そうか?」
「でもヘレンが信じるならアリサも信じる」
「もう帰れそうか?」
「うん……帰る」
「なら醤油を買いに行こう。メアリーさんに頼まれているんだ。醤油を買うついでにアリサを見つけろって」
「アリサついでなの!? ママ、アリサよりも醤油の方が大事なの!?」
「ほら、早くいくぞ」
「え!? へ、ヘレン!? 嘘だよね! 醤油がついでだよね! ねえ! ヘレン! 待ってよ!」
「アセビ」に戻るまでの道中、アリサはずっとそれを繰り返していた。
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