第17話 お話し
とっくにできた料理を持って、アリサは厨房から出られなくなっていた。その顔は今にも泣きそうで、必死に堪えている。
「……オイ、オレが持ってくから」
「な、何よ! フィルのくせに!」
口先ではそう言っても、アリサは大人しく料理をフィルに渡した。フィルは料理を持って私のそばを通り、「さっさと慰めろ」と小さな声で言ってきた。
厨房の奥に連れて行くと、アリサは私に抱きつき、声を出して泣いてしまった。
「ど、うしよう……! ヘレン!」
それを見たメアリーさんもまだ残っている皿を放って、駆け寄ってきた。
「アリサ、どうしたの? ママに言ってごらん?」
「ま、ママが悪いんだよ! アリサ、のこと! ちゃんと一番にしてくれないんでしょ! も、もうアリサ、大切じゃ、ないんだ! 醤油以下なんだあ!」
「まだそれで怒ってるの? 言ったじゃない……本当にママはそんなこと言ってなくてね……」
「違うもん!」
「どう違うの?」
「ママ、もうアリサのこといらないんでしょ!」
「……何言ってるの?」
「アリサ、知ってるもん! ママは、……! ママは、アリサの本当のママじゃないんでしょ! みんな言ってたもん! ママは優しいから、いらない子、助けてるんでしょ! アリサは、へ、ヘレンと同じ、いらない子だったんでしょ!」
「アリサ!」
あまりにも大きな声のメアリーさんに、私とアリサは驚いた。いつになく真剣で悲しい目をしたメアリーさんを見て、アリサの涙はまた大粒となって、溢れ出した。
「アリサ、まずはヘレンに謝りなさい」
「……! へ、ヘレン……あ、あのね……さっきのはね……」
「気にしていない。アリサもいらない子なんかじゃないよ」
「アリサ、謝りなさい」
「……ヘレン、ご、ごめんな、さい」
私に抱きついていた両手はきゅっときつくなる。アリサに向いていた目は私に向き、これもまた真剣な声音で聞いてきた。
「ヘレン、あなたは馬鹿なこと考えてないわよね?」
「……」
メアリーさんの目に心の奥まで見透かされたような気がして、私は答えられなかった。少し目を逸らして静かに頷く。そうすると、メアリーさんはほんの少しだけ、普段の優しい目に戻り、笑った。ただそこにはやっぱり切なさが隠れているような気がした。
「ヘレン、今日の『アセビ』はもう閉店よ。外のお二人さんが帰ったら、もうお客さんは入れないでちょうだい。メアリーさんはアリサと大切なお話しなきゃならないの」
「……わかった」
「お願いね」
きっとアリサの悩みも今日までだろう。今のメアリーさんはいつもより少し怖いような気がするが、二人でちゃんと話せば、アリサもわかってくれるだろう。
厨房から出ると、フィルはダエルの隣の椅子に座り、目を輝かせながら、二人と会話していた。
「すっげー!!」
「でしょ! ダエルすげーだろ! そんでね! そのまま敵軍につんこんでったの! まじで無敵なんじゃないの? って思うぐらいカッコよくってさ……。まあ、実際無敵なんだけど。オレあの時まだガキだったから、対して役に立てなかっただけどね……唯一活躍したのが、ダエルに自分の右目が潰れかけてるって伝えたらことぐらいなんじゃないかな。しかもダエルはさ、オレは言うまで気づかなかんだって!」
「本当っすか!?」
「……」
「あとあと! ……あ、ヘレンちゃん! 一緒にお話ししよ!」
あの私を不器用ながらに助けてくれたフィルはもういなく、誰よりも話の続きを聞こうと椅子から前のめりにすらなっている。
彼らは「アセビ」の最後の客であることを伝え、私は外に出る。このまま軒の下に隠れていれば、かろうじて雨には濡れない。あんなに青かった空は、今ではすっかり灰色に染まっていた。雨が今朝よりも弱まっていたが、手を伸ばせば、やっぱり冷たかった。一瞬この世界に私の居場所なんてないのかもだなんて、頭に横切った。そんなこと思うのは、あの日以来で、きっとメアリーさんに見つかったら、今頃アリサと同じく、お話しに付き合わされていることだろう。でも、やっぱり今の私は雨にでも濡れていた方がお似合いかもしれない。六年も経って忘れてしまったあの日の感情たちが、鮮明に蘇ってくるような気がした。強い不安が襲いかかってくる。またあの暗い海の底に戻らなくては。私だけがこんなところで、のうのうと生きているなんて、それはどんなに重い罪なんだ。一歩を踏み出さなければ。
「濡れてしまうよ?」
一本の黒い傘が目の前に映る。気づいたら目の前には、クロークの男がいた。今度ははっきり顔が見えた。あの時輝いていたのはやっぱりこの翡翠で、近くで見ると、どこまでも深く、引きずり込まれそうな瞳をしていた。
「この店の中にダエルとルイスっていう男いる? 友達なんだ」
「……なんで雨が降るってわかったんだ?」
なんと的まずれな会話を続けたのだろう。思っていたことをそのまま口に出してしまった。きっと変に思われたに違いない。慌てて言い直そうとしたら、男は少し笑って答えた。
「秘密」
「……そ、そうか。二人なら中にいる。でも『アセビ』は今日これで閉店だ。料理を出してやることはできない」
「二人を迎えに来ただけだよ。すぐに帰る」
そう言うものだから男を中に入れてしまった。すぐに帰るのだから客には入らないだろう。これはきっと約束を破ったことには入らないはずだ。
「あ! レオンじゃん! 手がかり見つかった?」
「まだもう少しかかりそう」
「これじゃあ、明日も動かないとかあ……って、オレいいこと思いついた! ねえねえ、フィルくん、このお店で調査してもいい?」
「いいっすよ! ……じゃなかった。オレ、この店の店員じゃなくって……」
「ふーん。じゃあ、ヘレンちゃん! どう?」
先ほどから調査と言うからには、きっと面倒なことに巻き込まれるに違いない。これはきっと断った方がいいことだろうが、メアリーさんの耳に入れば、きっと許可を出してしまうだろう。回答に困っていると、私よりも先にダエルが声を出した。
「ダメだ」
「えー? オレ、ヘレンちゃんに聞いてんだけど」
「お前たちが何の任務を任されたのか知らんが、メアリーたちを巻き込むな」
「ただ調査する拠点にさせてもらうだけじゃん。一日中外を走り回るの、本当に大変なんだよ?」
「それでもダメだ。迷惑だ」
「ダエル頑固だなあ」
「……レオンも言ってやれ」
「いや、僕もできればここで調査させて欲しい。ここは食堂だから人が集まりやすいし、情報も得やすいと思うよ」
「……ダメだ」
「いいわよ」
ダエルがやっぱり反対しようとしていたら、奥からアリサを連れたメアリーさんが出てきた。
「困ってることがあるんでしょ? いいわよ。『アセビ』使っても」
「お、噂のメアリーか?」
「……やめろ、ルイス」
メアリーさんならそう言ってしまうとわかっていた。この六年間でも、困っている人を放って置いたメアリーさんを私は見たことがなかった。メアリーさんの後ろに隠れているアリサは、私から明らかに目を逸らしている。気にしていないと言うのだから、そんな態度でなくていいのに。それにしてもメアリーさんは、先ほどからずっとこのクロークの男を見ている。やはり怪しい極まりない格好だからだろうか。
「……そこのフード被ってる方って、もしかして……」
「久しぶりだね」
そう言って男はフードを外し、ほんのり青掛かった黒い髪を露わにした。
「まあ! やっぱりレオン坊ちゃんだったんですね! 私だって伊達に三年もメイドしてたわけじゃないのよ! 大きくなられましたね」
このレオンという男はどうやら貴族のようだ。メアリーさんがメイドをしていたことにも驚きだ。
「しかし、あなたがダエル少将の言っていたメアリーさんだなんて……。調査というのは、ただ、この近くに住んでいる人々から情報を聞くだけのこと。絶対店の邪魔にはならないことを約束するよ」
「いえいえ。全然構いませんわ! 好きに使ってどうぞ。ね! アリサ、ヘレン」
後ろにいたアリサは弱々しく頷く。私もメアリーさんの決めたことには異論はないが、きっとこんなことに心良く受け入れるなんて、やっぱり優しすぎる。いくら時間が経ってもメアリーさんだけは変わらないのだろうなと相変わらず思った。
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