第12話
しかし、思ったよりも時間がかかっている。目を閉じてうさぎを待っているなんて、まさに待ちぼうけじゃないかとくだらない事を考えていると、僕の口が彼女の指によって無理やり閉じられた。
声を出そうとしたが、僕には腹話術の心得も無いので、喉の奥から少しだけ唸り声のようなものが鳴るだけだ。そして、その瞬間に、
唇にほんのりとレモンの味がした。
僕が驚いて目を開いた時には、彼女は既に僕の顔から握りこぶし二つ分くらいのところまでは顔を下げていたが、顔中が真っ赤だった。まるで彼女自身がリンゴみたいに。
「だって、目を閉じるから、そういう事なのかなって」
全く関係のない話を挟むが、彼女の愛用しているリップクリームはレモンの味がするらしい。
僕たちは何がとは言わないけれど初めての経験をした記念のベンチを後にして、公園の内側へと向かった。
彼女は上手く隠しているつもりだろうけど、待ち合わせ場所にこの駅を指定すれば、やることなんて限られてくる。候補はせいぜい、右手の指で足りるかどうかくらいだ。
「この公園って、実は意外と遊ぶ場所があるってことを、優くんに教えて差し上げよう」
「ほうほう」
「とりあえず、定番のボートから!」
彼女が僕を連れてきたのは、県内でも三本の指に入るほどに大きな公園だ。アスレチックだけでなく、ボートに乗れる湖や、サッカーの競技場もあるらしい。
ここら一帯を郊外のニュータウン化しようとする政策の中で、子供に魅力的な街として開発を推し進めたのだ。そのおかげで、施設は全体的に新しく、清潔感がある。
「はい、チケット。三十分で大丈夫だよね」
彼女が先へ先へと行くものだから、何とか呼び止めてチケットを買うのは僕がやらせてもらった。お弁当を作ってもらったせめてものお返しとして、ボート代くらいは出させてほしい。
ただ、彼女はチケットを買って戻ってきた僕と、そのチケットを見るや否や不安そうな表情を浮かべて、こう聞いた。
「優くん、三十分も漕いで大丈夫なの?」
「ふぅ、ふぅ」
重い。船を漕ぐのってそんなに大変な事だったのか。僕は数分前の自分に教えてやりたい。
他のカップルは皆、上手く船を操りながら談笑しているが、僕にそんな余裕は無かった。それどころか、彼女に船を漕ぐことを交代するように促される始末だ。
「いや、大丈夫。これくらい」
こんな事なら普段からトレーニングをしておけばよかった。一日に一回は必ず出かけるようにしているから健康だとは思っていたけど、それだけではダメらしい。
汗が出てきて、顔が自然と下に向く。こんな状況で、楽しめているのかが気がかりだった。
僕のするべき事はあくまで彼女を楽しませることであり、三十分間ボートを漕ぎ続けるのはあくまで手段に過ぎない。
まあ、僕がしっかりしていれば三十分も漕ぐ必要は無かったのだけれど。
僕が顔を上げたところ、いきなり目の前が真っ白になった。
「あ、ごめん。眩しかったよね。でも、いい写真取れたよ」
一瞬、僕は視界が点滅して気を失ってしまうのかと思ったが、それは彼女が僕を撮影した際にたかれたカメラのフラッシュだった。その証拠に、彼女の手には小さなデジカメが握られている。
彼女はその画面を見せてくれた。
だが、写真はお世辞にもいいとは言えない。彼女の腕前が悪いのではなく、悪いのは被写体である僕だ。
おおよそ、写真に写るときにしていい顔じゃないだろう。クラス写真でこんな顔をしていれば、卒業アルバムを開くのをためらうくらいのレベルである。
「え?そうかな。私はこの写真好きだよ。ほら、汗かいて頑張ってるとことか」
「え?汗フェチなの?」
「いや、優くんって昔から全然汗をかかないっていうか、何でもできるじゃん。勉強もそうだけど、体育とか音楽でも苦しんでいるところを見たことが無いもん」
ああ、彼女と過ごしたのは中学の三年間。その時はちょうど手を抜いている俺ってかっこいいと思っていたころだ。何でもできるわけでは無くて、ただ出来ない事は上手く避けていただけだ。
「だから、今は凄く私のために頑張ってくれてるんだなあって思って」
そう言って彼女は笑う。今、僕の両手に握られている物がオールではなくデジカメだったなら、是非とも写真に収めたい一瞬だった。
「でも、頑張りすぎちゃダメだよ。もしも疲れたなら戻ろ?」
「え?でもまだ十分くらい残ってるけど……」
ボートに括りつけられているストップウォッチも、まったく鳴る気配はしない。
「そんなの良いの。大事なのは私と優斗が楽しいかって事だから」
「まぁ、そうだけど」
ボート代に関してはあまり気にしていなかったけど、彼女がボートに乗ることを楽しめたのかは不安だった。提案するからには僕とボートに乗ることを楽しみにしていただろうし、
「それと、ここからまだまだ見て回るものがあるんだから、ここで体力使い切られたら困っちゃうよ。さ、私も漕ぐの手伝うからさ」
彼女の手はいつの間にかデジカメを離し、その両手は僕の両手にそれぞれ重ねられている。
「さぁ!出発進行!」
彼女の力が加わったおかげで、かなり楽にボートが動くようになった。たぶん、単純な力の足し算だけじゃないのは、言わなくてもわかるだろう。
ボートを指定の位置に停めてから、オールを返しに貸しボート屋に向かった。店主には時間が残っているけどいいのか、と言われたが僕はそれに笑顔で頷けた。
彼女が次に僕を連れて行ったのは、花畑だった。
その時には、さっきのボートを二人で漕いだ影響もあって、手を繋ぐことにためらいは無かった。疲れたのと緊張のせいで手汗が止まらなかったけど、気にしないでいてくれているみたいだった。
「おお~」
花畑は少し坂を登ったところにあり、登りきらないとまったく花が見えない。
その代わりに、一斉に視界に飛び込んでくる花畑は、壮観だ。
「うわ~一度で良いからあのど真ん中に飛び込んで、大の字で寝てみたいな~」
それはきっと映えるんだろうと思う。何の花が似合うだろうと考えたけど、僕にとっては彼女がいれば周りの花がどんな種類であろうと、関係が無いという結論に至った。
「ねえ、優斗は好きな花とかってある?」
「いや、特にないかな」
花と聞いて、まっさきに思い浮かんだのが向日葵で、その次がバラだ。素直に思い浮かんだものを口にすればいいのかと思ったが、特別な思い入れを持っているわけでは無い。
強いて言うなら……
「朝顔かな?」
「へぇ、それはどうして?」
「特に理由はないんだけど、小学生の頃に植物係をやっていたからそれで思い入れがあるくらいなんだよ。単純に綺麗なのもあるけどね」
「確かに、植物係がなんかしっくりくるね」
「そういう若菜は、ってどこに行くの?」
僕の問いかけを無視するかのように、彼女は僕の手を引いてずかずかと進んでいく。花畑の入り口にあった地図によると、確かそっちは……
まるで眩しくなるくらいの黄色が、僕の視界を覆いつくした。そこには、ちょうどピークの最終版を迎えた、菜の花畑があった。
「私は、名前の由来にもなった菜の花が好きだな」
「名前の由来?」
若菜。野菜や花など、植物に疎い僕には、そのつながりが見いだせなかった。
「ちょうど、私が生まれてきた時にも病院の窓からこんな景色が見えたんだって。でも、そのまま菜の花って名づけるんじゃなくて、初春の葉菜類って事で若菜って名前にしたんだって」
「葉菜類?」
聞き覚えの無い単語だ。彼女の丁寧な説明によると、葉っぱの部分を食べる植物の総称らしい。その中でも特に初春に採れるものを、若菜と呼ぶらしいのだ。
「これからは憶えててね。ちなみに、花言葉はこれ」
彼女が指さす先には、菜の花の説明をした看板が立てられていた。そこには分類と、簡単な紹介、花言葉が記されている。花言葉は……
「快活や明るさか、よく似合うね」
まさに、彼女を表すのにぴったりな花だと思う。名は体を表すなんて上手くいったものだ。
「ありがと、ここには書いてないけど、小さな幸せって意味もあるから私は好きだな」
「良い名前を付けてくれた両親に感謝しないとね」
「ホントにそう。だから、私も子供が生まれたらそうしてあげようと思って」
「そうする?」
「生まれた日に、病院の窓から見えた物を名前に入れるの」
それは、素敵な話だと思った。彼女の子供は、母親に似て快活な子なのだろうか、それとも大人しい子になるのだろうか。
「楽しみだな~」
彼女は、かなり自分の子供に対して憧れを持っているようで、そういった話をするときにはいつも、語尾に音符がついているようなくらい、機嫌が良い。
いつか、彼女が自身の子供を抱く姿を、隣で見ていられたらなあと思うった。
「ねえ、ホントに目を閉じなきゃダメなの?」
「そうそう。ほら、次は左に行くよ」
僕達は夕食を付近のショッピングモール内にあるフードコートで済ませて、若菜が言うところの本日のメインイベント会場へ向かっている。
ちなみに僕は何が行われているのかは知らされておらず、それについて調べることも禁止されていた。
「何も知らずに見てみると、より感動するでしょ?」
そんな彼女の多大なる行為によって、僕はたった今も視界を失っている。
さすがにそこまでやる必要はないと思ったけれど、彼女が今日のためにいろいろな事を考えてデートプランを準備してくれたのは間違いないので、彼女の手を受け入れることにした。
「は~い、次は右に曲がるよ」
彼女が腕を組んで誘導してくれて入るが、目を閉じたまま移動するのはかなりの恐怖だ。
しかも、片手で目隠しをしながら僕を引っ張っている彼女もすごう歩きづらそうで、何度か転びそうになった。
そのたびにお互いの距離が縮まって、彼女の香りや息遣いに意識がいってしまう。五感のうち、視覚が封じられている状態なので、他の感覚器官は非常に敏感な状態だ。
僕は周りからの視線による恥ずかしさと変な興奮で、どうにかなりそうだった。
「いくよ~はい」
彼女がやっと僕の目元から手を離す。目元にだけほんの少し温かさが残っていて、なんだか奇妙な心地がした。
夜なのに、まるで太陽のほうを向いているかのように閉じた瞼の裏側も赤く見える。
光になれるまで、少し時間を待ってから瞼を上げると、
「……」
そこに広がっていたのは、辺り一面の花だった。
それこそが、彼女がわざわざ目隠しをしてまで、僕に見せたがっていたものだった。
この時期では有名な藤、パンジー、ラベンダーだけではなく、バラやチューリップなどの様々な色をした花が、ライトに照らされて輝いている。
薄紫、黄色、白、青、オレンジ、水色、ピンク、赤、小さなころに夢で見たような景色が、そこには広がっていた。
童話で語られていた虹の根本は、こんな景色が眠っているんじゃないかと思うほどに幻想的で、僕は一瞬もの間、何もかもを忘れて見入っていた。
「お~い、彼女さんはほったらかしですか~?」
視界の端に、手がうつる。その手は、説明するまでもなく彼女のものであった。
「なんだか、とても馬鹿みたいな顔してたよ」
彼女が手にもつスマートフォンには、口を丸く開いた僕が写っていた。
「ほら、写真撮ろ。はい、チーズ」
彼女の笑顔と、ライトアップされた花々。
この画像を見た僕が学んだことは、美しさは足し算ではなく掛け算で導き出せることだった。
二人で手を繋いで歩く花畑は、まるで現実感が無くて、まさに天国の様だった。
彼女から伝わる温度が、僕の意識を繋ぎとめていたんだと思う。
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