第18話
急いで家に戻った漁師は、母親に擬態した人魚に無理やり魚を食べさせる。
その瞬間、人魚は病気にかかって苦しむ演技をやめて、元気になった母親の演技を始めた。
「ん?あれっ、何かわからんが、まったく胸が苦しくない。治った、のか?」
それを見て、漁師はたいそう喜んでいる。人魚に騙されていることは知らずに。
「おっかぁ、良かったなあ」
それから漁師と人魚は二人で仲良く暮らした。しかし、漁師は人魚の事を母親の事と思い込み、人魚はその役に徹していた。
ただ、そんな作られた幸せが長く続くわけがないのも、また事実だった。
人魚はあくまで海中の生き物である。
慣れない陸地で人間に擬態する魔法をかけ続けることはとても辛く、大変だった。それは体力だけのはなしではない。
人魚は漁師と暮らすうちに、彼の家族や生き物に対する思いやりを感じて、どんどん漁師に対して好感を抱いていった。ただ、その気持ちが増せば増すほど、漁師を騙していることに負い目を感じていったのだ。
そしてついに、漁師の母親に擬態してからちょうど一年後、人魚は体力と精神の両方が限界を迎えました。その頃には既に人魚は漁師に淡い恋心を抱いており、愛する漁師を騙し続けることは彼女の心にじわじわと傷を負わせていった。
人魚はこのまま人知れず漁師の元を去ることも考えましたが、それはできませんでした。
共に生活するうちに、漁師の優しさに触れた人魚は、ある期待を抱いていました。
それは、人魚がしたことを許して、自分を受け入れてくれることだった。
人魚は漁師に本当のことを告げて、彼が許してくれたならこれからも一緒にいたいと思うようになっていました。
人魚もそれはひどく傲慢で自分勝手なことはよくわかっていたが、彼女の理性が心を押さえることが出来なかった。
いや、一年前に母親の死体を隠した時点から彼女の心には制御が利かなくなっていたのかもしれない。
そして、その夜に漁師がとってきた魚を鍋にして二人は庵を挟んで向かい合う。漁師はいつものように、今日の漁がどうだったかを話しながら楽しそうに笑っている。
漁師の笑顔を見るたびに、人魚はそれが自分の嘘によって作られたものだと思うと、とても悲しい気持ちになると共に、胸の辺りは激しく脈を打つ。
そして、そんな自分が嫌になる。
ただ、それも今日で終わる。漁師が人魚を許そうが許さまいが関係なく。
彼女は普段使っている老齢な声では無く、はっきりとした声で言った。
「話があります」
「話って、どうしたんだ?」
漁師は素直に不思議がる。母親は病気から完治したが、外出もしていないものだから、特に目新しい事も無いはずだと思っている。もしも、そこにいるのが本物の母親であれば漁師の疑問は正しいはずだった。
「実は……」
人魚は漁師が帰宅する前に、覚悟を決めていたはずだったが、いざとなると上手く言葉が出てこない。
「落ち着いて、ゆっくり話してくれたらいいよ」
「うん、実は私はあなたの母親じゃないの」
「へ?」
それから、人魚はこれまでにあったことを話しだした。できるだけわかりやすく、丁寧に、そして自身の印象を悪くしないように。
話し終わると、人魚はほっと息を吐いた。彼女から見て漁師は、怒っているようでは無かったのが救いだ。ただ、それはあくまで漁師が話を理解するまでの話だった。
「……出ていけ」
「へ?」
なので、人魚は漁師の口から出てきた予想外の言葉に戸惑い、上手く聞き取って理解することが出来なかった。
「出ていけ、このバケモノ!」
漁師は低く、感情のこもっていない声で叫ぶ。そこには、人魚のよく知るこころ優しい漁師の姿は無かった。
「ご、ごめんなさい。でも、あなたのためを思って」
「うるさい!」
漁師が無理やり家から追い出そうとするから、人魚は力で抗うことが出来ない。
「二度と戻ってくるな!」
漁師に鬼のような剣幕でそう怒鳴られた人魚は、許してもらう事を諦めて海へ戻っていった。
僕は途中から、ナレーションをすんなりと理解する事が出来なくなっていた。あまりにも、自分が知っている話と違いすぎるのだ。
童話は本来、なにか人生において大切な事を子供に伝える側面があるはずだ。
実際に、先ほど若菜が暗唱したほうの人魚伝説は、自然を大事にすることや動物を思いやる心の大切さを説いていた。
上演されている話からも学べることはあるが、あまりにも回りくどいから童話として上手く成立していない。
「若菜、これってどういう事だろう」
疑うわけではないけれど、劇の内容が間違っていると考えても仕方ない。僕はその疑問を共有するべく、彼女に話しかけようとしたけれど。
「若菜……え?」
僕が先ほどまで彼女がいた方向を見ると、彼女はそこにはいなかった。
「えっ?」
どこかに行った?
トイレに行きたくなったのかもしれないし、小腹が空いたからちょっと屋台の方に行ったかもしれない。
でも、この人混みだから席を外すときには声をかけるはず。なら、僕に黙ってどこかに行ったのか?
慌てて携帯を取り出し、彼女の番号にかける。
それと同時にあたりを見渡した。派手な色の浴衣は良く目立つし、何よりも動きにくい。僕から離れようとしても、それほど遠くには行けないはずだ。
ただ、それらしき人は見当たらない。もうすでに人混みに紛れたのか。
僕の意識は既に劇には無く、その後の展開はわからなくなった。
「ちょっと、すいません」
延々と同じ音を繰り返す携帯電話を耳に当てながら、とりあえず視界が開けた場所に行くことにした。視界が開ければより冷静に考えられるだろうし、考えたくはないけれど、もしも彼女が僕を避けようとしてあの場所からいなくなったとしても、なんとか追いつくことが出来るかもしれない。
劇を見ることに集中している観客を手で退けて、半ば無理やり道を開ける。
そんなことがすいませんの一言でチャラになるわけは無く、嫌な視線を周囲から感じたが、そんなことを気にしている暇はない。
僕がようやく人混みを抜けるころには、電話はいつの間にか切れていた。近くから電話を鳴らす音が聞こえてないことを考えると、電源を切っているか既に付近にはいないのかもしれない。
僕はかばんに携帯を突っ込んで、とりあえず動き回ることにした。そして、会場の出入り口方面に向かう彼女を見つけた。
「若菜!」
人混みの中を歩くうちに靴紐はほどけていて走りにくかったけど、気にせずに走り出す。彼女も僕に気づいたみたいだが、振り返らずに走り出した。
会場には複数の出入り口があって、確かあの出入り口から出れば向かう先は……
「海か」
こんな夜中に、海に向かう理由はわからないが、追いかけるしかないだろう。
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