第19話

 彼女と海を訪れるのは、これが最初では無い。

 中学三年の体育祭。その後に、僕と雪乃と若菜は有り余るテンションに思考を委ねて、気がつけば海に来ていた。クラスで打ち上げもあったらしいけど、若菜が親からの言いつけにより遅くなることは禁止されていたから、僕ら三人で軽い打ち上げをしようとなったのだ。

 海は白い砂浜なんかじゃなくて、なんだか体に悪そうな黒い色をした砂浜と、テトラポットだけがポツンと取り残されているような場所だけど、その時の僕らにはそれで充分だった。

「お~重たっ」

「ほら、ジュースは持つから貸して」

 僕と雪乃は、テレフォンカード代わりに親から預かっていた連絡用のお金を出し合って、最寄りのコンビニでジュースと簡単なお菓子を買って海に戻る。

―――ああ、その瞬間だった。

 忘れていた、僕が飯生若菜に恋をした日。正確に言えば、思いを自覚したのは、

「お、お帰り。ご苦労様」

 彼女は、海辺に無造作に設置されたテトラポッドに腰かけて、水平線に沈んでいく夕日を見ていた。僕と雪乃の声が聞こえて振り返った彼女は、涙を流していた。

「若菜……」

 雪乃は、その涙を目にして言葉を失う。僕もかける言葉は見つからなかった。

「え?ああ、ごめん。なんだか湿っぽくなっちゃうよね」

 彼女は、体操服の袖で涙を拭おうとしたけれど、夏服は涙を拭うにはあまりにも短すぎた。

「気にしなくていいよ。大丈夫だよ、若菜」

 雪乃がそっと抱きしめて、涙を拭い去った。若菜は、雪乃の腕の中で泣くことは無かった。

「ほら、お菓子食べよ。優くん、早くちょーだい」

 僕たち三人は、お菓子を食べながら夕日を見ていた。


「潮が引き始めたね」

 ここら一帯は浅瀬で、干潮時には所々に砂の道が現れる。

 夕日が一本の線をかたどっている。

天国への道があるなら、こんな道なんじゃないかと思う。

「若菜、行こ」

 雪乃が運動靴を脱ぎ捨てて、若菜の手を取り砂の道を跳ねるようにかける。若菜も戸惑っていたが、やがて笑顔を取り戻し雪乃とともに、夕日に照らされていた。

「優くんも来なよ~」

 この誘いを断るのには、夕日に照らされた二人はちょっと魅力的すぎただろうか。

 手で掬った海水は、雪乃の指の隙間をすり抜けて少しだけしか残らない。

 空中に舞ったその少量の海水が、若菜の流した涙に似て綺麗だった。


 僕たちは、元気を使い果たすようにはしゃいだ。

体操服は汚れたし、目に海水が入ったけど、そんなことが気にならないくらいに。

「終わっちゃったなあ、体育祭」

「そうだね」

 若菜は、大きく息を吸って、夕日に向かって叫ぶ。

「高校では、体育祭に参加できますように~」

 水平線へ向かって飛ぶ鳥の鳴き声が、その言葉への返事であれば良いなと思う。


 僕は、彼女が海に到着する頃に、なんとか追いついた。

「どうして……」

 息も絶え絶えに、手に膝をつきながら問いかける。

追いかけている最中にも彼女に僕の声は聞こえていたはずだ。

それでも止まらなかったのは、僕から離れなければいけない理由があるとしか思えない。

「ごめんね……」

 彼女は小さな声で謝った。それは潮騒にかき消されてもおかしくないほどの声だった。

こちらを向いてはいなかったけれど、彼女の表情を想像することはそこまで難しくは無かった。

「急にどうしたの?」

 彼女が突然、祭りの会場を出て海に来た理由は全くもって想像がつかない。

「ごめん……」

 彼女も息を切らしている。当然だ。僕も決して足が速い方ではないけれど、走りにくい浴衣を着て大学生の男子から逃げ切るのには相当体力を使うだろう。

「まずは落ち着いて。僕は水を買ってくる」

彼女は心も体もまともに話せる状態じゃなかった。僕は彼女の手を取り、ゆっくりと海岸沿いのベンチに座らせた。

いったん、一人で考える時間が必要だろうと思い、僕はゆっくりと自動販売機のほうへと歩いてむかう。

 夜の海岸を照らす自動販売機で、自分の者も含めて二本の水を買う。念のために、彼女の行動を警戒していたけど、ボタンを押すその瞬間だけ彼女から目を離してしまった。

しかし、彼女はベンチから一歩も動こうとしなかった。ここまで見晴らしが良い場所に逃げてしまうと、走りにくい浴衣を纏って逃げることは不可能だと考えたのだろう。

「落ち着いた、ゆっくりでいいよ」

「ありがとう……」

 彼女はそう言って水を受け取り、ゆっくりと喉を鳴らした。まだ呼吸が落ち着いてないようで、むせてしまう。苦しんでいる彼女の背中をさすりながら、僕は優しい声を意識して問いかける。

「どうして……」

――ここで祭りの会場から逃げ出した理由を聞けば、このままの二人でいられるのかもしれない。

 なんて考えが浮かんだけれど、浮かんだ疑念は消えてくれなかった。

僕はそれを無視することはできない。これからの関係を続けていこうと思うと、どうしても心にしこりが出来てしまう。

 彼女も、俯きながら僕の言葉を待っているようだった。

「どうして、こんなことをしたの?」

 ……

「ゆっくりでいいから、教えてくれ。雪乃」

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