第20話

 思えば、これまでにもたくさんヒントがあった。

例えば、僕が飯生さんにした覚えのない話を、あたかも以前に話したことのように話すこと。飯生さんの考えとは若干違う物事の考え方をしていること。

 ただ、他の人からまた聞きをしたんだろうとか、成長と共に考え方が変化したのだろうと考えればそこまでおかしい事では無かった。

 今日のことがあるまでは、気にもしていなかったような事だった。

ただ、飯生若菜を構成する要素として最も重要な部分が異なっていることを、僕は彼女が逃げ出したことによって、知ってしまった。おそらく、僕でなくても中学時代の同級生であれば、誰もがこの行動に違和感を覚えるはずだ。

 彼女、飯生若菜は重度の喘息持ちだったのだ。


 喘息とは簡単に言えば気管支の炎症によって、気管支が狭くなり呼吸時にヒューヒューと言った音がするだけでは無く、呼吸困難に陥ることもある病気だ。劇的な治療法は確立されておらず、どちらかと言えば喘息と上手く付き合って暮らしている人が多い。

 その治療や、肺機能を鍛えることによって症状を和らげることもできるが、飯生さんはかなりの重傷だったから体育の授業にすらまともに参加できていなかった。

 とうぜん、運動部の部活動にも参加できないし、体育祭も競技には出場できずに応援に徹していた。

それほどまでに重い喘息の症状を持っていながら、祭り会場からここまでの距離を僕から逃げることはおかしい。しかも、急な呼吸器への負担に対して、なんら症状があらわれていないことを僕は看過できなかった。

 そして、その疑いが確信に変わった途端に僕の心に残っていた一年間の思い出から、飯生さんの姿が消えた。いや、正確には別の人間がそこに存在したのだ。

 これまでの僕が感じていた違和感を全てなくすことができ、なおかつ全速力で追いかける僕から海まで逃げ切れる人は、僕の知り合いには一人しかいなかった。

 深崎雪乃。

 僕と飯生さんの共通の友人であり、僕にとって異性では最も親しい友人である。

 そして、雪乃は中学時代から陸上部に所属しており、当時は僕よりも足が速かった。僕とのデートも、雪乃からみれば友達と遊びに行くくらいだと割り切ることもできるだろう。

「ねえ……」

 僕の問いかけに対して雪乃は黙って下を向くばかりだった。僕もどんな言葉を続けて良いかわからず、波の音だけが静寂に響いている。

 何度目かの波が砂浜にうちあがる音がしたあと、飯生さんの姿をした雪乃がおもむろに立ち上がって、僕に向かって頭を下げた。

「ごめんなさい。一年以上もの間、ずっと優くんを騙していました」

そう言って、こうなった経緯をゆっくりと語りだした。


 きっかけとなったのは、流れ星が降った夜だった。

 雪乃はたまたまコンビニに出かけていて、帰り道に公園を通っていたらしい。

「ちょっとコンビニにお菓子を買いに行ったんだけど、公園で優くんを見つけたんだよ」

 ただ、雪乃はコンビニに行くためだけに外に出たので、メイクも適当でタンスの一番上にあった服を引っ張り出したような恰好だったから、話しかけることができなかったらしい。

その時、夜空に一本の線が描かれた。雪乃もそれに見入っていたが、

「飯生さんに、もう一度だけで良いから逢いたい」

 ふと、自分の知った声で自分の知った名前を呼ぶ声を聞いたのだ。

 声のする方向を見ると、もちろんそこにいたのは僕だった。

それを聞いた雪乃は、僕が今も変わらずに飯生さんを思っていることを知り、何とか僕の願いを叶えたいと思って、いろいろな思考を巡らせた。

そこで、与国人魚伝説に縋ったのだ。


雪乃は元々、与国祭りで上演された内容も知っていたらしい。

小学校時代に暗唱で褒められたのは雪乃で、そこから興味を持って調べたところ、今日の話にいきついたらしい。ちなみに、演劇の話が正統な伝承らしい。

 ただ、そんなことはどうしても不可能だとわかる。人魚が仮に人の姿を変える力を持っていたとしても、そんなものは元々存在しないことは誰にでもわかる。

伝承に縋るなんて他の人から見ればおかしな話だろう。

「もちろん、私だって変身したところで優くんの気持ちが満たされるわけがないのはわかってたよ。だって、優くんが好きなのは若菜の外見だけじゃないって知ってたから」

「……そうだけど」

「でも、私に若菜の代わりはできないけれど、少しくらいなら穴埋めできるかなって思ったの」

僕の願いを叶えたい。雪乃はその一心で、人魚伝説に縋ったのだ。


雪乃はその日、夢を見たらしい。

それは、雪乃が海岸を散歩しているだけの夢だったが、

「小娘、そなたの願いを叶えてやろうか?」

 そんな声が突然、聴こえてきたらしい。そして、海のちょうど月が映っている場所から、泡が立って、

「わしのいう事を信じるのであれば、願いを叶えてやろう」

 そう言いながら美しい女性が現れた。その人は海の中から出てきたはずなのに、まったく髪が濡れて居らず、息を切らしてもいなかった。

 そして、雪乃の動物的な本能が、この女性は自分とは違う生き物であると警鐘を鳴らしていた。

 その女性は、雪乃に対してこう問いかけた。

「お前の思いを叶えてやろう。ただ、それは後々にお前にとって大きな災いをもたらすであろう。それでも良いのか?」

 雪乃は困惑した。あり得ない現状を目の当たりにして、なおかつ自分に選択肢を与えられている。ただ、雪乃にはその女性のいう事を信じるほかなかった。

「お願いします。優くんの願いを、少しの間だけでも叶えてあげたい」

「よかろう。しかし、それにはかなりの力が必要だ。その力にお前が耐えられなくなったと判断した時には、私が止める」

 それだけ言い残して、その女性は再び海の中へと潜っていった。

 そして、その瞬間に沿道を一台の大型トラックが通った。車のライトが雪乃の背中を照らし、暗い砂浜に影を映し出す。その影が映し出されたのはわずか数秒の間だったが、その影は普段よりも少しだけ長く、何よりも生まれてこれまでボブカットで暮らしてきたはずの雪乃を照らしても映るはずのない、長い髪が影にも表れていた。

 その瞬間、目が覚める。

 雪乃は慌ててスマートフォンを取り出し、カメラアプリを開く。

 内カメラに切り替えたその画面に表示されたのは、おそらく飯生若菜を十九歳にしたらこのような顔になるだろうというものだった。

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