第24話
「も~またパパが泣いてる~ママ~」
「こ、こら。手を離したら危ない」
女の子は、その小さな体にある全ての力を使い果たすように、全力で駆けていく。
その父親は、あまりにも背丈が違いすぎて女の子を捕まえるのにだいぶ苦労していた。
「ほら、捕まえた!悪い子は、こうしてやる!」
「あはははは、ママ、パパがまたこしょこしょしてくる~」
どうやら「こしょこしょ」とはくすぐることの擬音らしい。何とも女の子らしい表現だと思う。できればその純粋さは、失わずに育ってほしいものだ。
その声を聞きつけて、女の子の母親が少し遅れてやってきた。
「やっぱりパパは、若菜が大好きなのねえ」
その声は、母親でなければ出せないような優しさを帯びており、決して他意が無いことが伝わってくる。そう、純粋に女の子とその父親が仲良しなのを喜んでいるようだ。
「でもね、今日から若菜はママもパパもいない場所で生活しなきゃなのよ。パパは心配性だから、若菜に何かあったらどうしようって思ってるの」
「そっか、でもね、パパ。若菜はもう五歳なんだよ、心配しなくても大丈夫だよ」
そう言って女の子は、父親に抱き着いた。とても幸せな光景だ。
もしも私が、あの時にもっとうまくやっていれば、このような結末もあったのだろうか……
いや、もう千年以上も前の話だ。今更そんなことを思っても仕方がない。
人魚は少しだけ寂しさを覚えるが、それを一笑して、まるで役目を終えたかのように、誰にも知られずにひっそりと姿を消した。
短剣で自分の胸を突き刺せたのだろうか、それとも海の泡となって消えることが出来たのだろうか、その結末を知る事は誰にもできないだろう。
ただ、一つ。人魚の最後が安らかな笑顔であればいい。
僕は、無事に大学を卒業して、就職活動も順調に進んだ。第一希望の会社では無かったが、目指していたエンジニアになれた。
小さな会社ではあるものの、その中で頑張った甲斐もあって最近ではプロジェクトの管理を本職として任せてもらえるようになっている。
給料もかなり良くなってきたし、人にあれこれ指示を出すのは苦手な方だが、プロジェクトが成功した時のやりがいはひとしおだ。いい仕事に出会えたと思う。
雪乃も無事に短大を卒業した後は、猛勉強の末に教員資格を取得して、中学生たちに家庭科を教えている。
彼女も彼女で、生徒たちが自分を見かけて挨拶をしてくれることに喜びと、教師としてのやりがいを感じているらしい。
そして、今から六年前の事だ。僕が始めて任せられたプロジェクトを成功させたお祝いとして、二人で再び神戸を訪れたのだ。
その旅では、彼女も自身の給料で買った一眼レフを持って、いつかのようにはしゃいで色々なものを撮影していた姿はよく覚えている。
その夜、僕たちはオリエンタルホテルのレストランで食事をとっていた。
こんな時に気の利くサプライズでも容易出来れば良かったんだけれども、僕はケーキやワインに何かを仕込むことも無く、周りのお客さんが皆、音楽に合わせて踊りだすようなことも無かった。。
だからこそ、飾るわけでも無く、純粋な気持ちだけで勝負しようと思った。
「雪乃、好きだ。僕と結婚してくれ」
雪乃がちょうど、ナイフとフォークをテーブルに置いたところで、僕は席を立った。
片膝をついて、指輪のケースを両手で開く。これは僕の勝手なイメージだったので、もしかしたら古いのかもしれない。父や母はどのようにしていたのだろうか。
その時の事はあんまり覚えていない。緊張しすぎて指輪のケースには手汗がついていただろうし、顔なんて耳まで真っ赤だったのだろう。
ただ、そんなかっこ悪い僕のプロポーズを聞いた雪乃は、口に手を当てて驚き、
「はい、私も大好きです」と、涙交じりの声で言った。
その瞬間に店内に、僕たちを祝福するための音楽が流れた。僕は特に注文はしていなかったのだが、店側のサービスでピアノは生演奏だった。その時だけは、世界は僕と雪乃のためだけにあったと言っても、傲慢では無いだろう。
「おめでとございます。良ければ、お写真でもどうですか……ってあれ?」
「え……ああ、あの時の!」
僕たちがその時に出会ったのは、初めて神戸に来た時にカメラを貸してくれたあのお兄さんだった。まさか、再び神戸で会うことになるとは、夢にも思っていなかった。
彼は僕たちにお祝いの言葉をかけ、雪乃が持ってきたカメラを使って僕らを撮影してくれた。
雪乃がプロポーズシーンの再現を写真に収めて欲しいと願うものだから、ギャラリーから囃し立てられながら片膝をついたのも、アルバムを見返すと良い思い出だったと思う。
そして、それから約一年後に僕たちは子宝に恵まれた。出産が近づくに連れて仕事どころではなくなってしまい、ちょうどその頃にプロジェクトを受け持っていなかったこともあって、入社以来ずっと使っていなかった有休をとって、付きっ切りで雪乃の右手を握っていた。
「うぅ、うわぁぁあぁ」
産声をあげたのは、元気な女の子だった。思えば、僕はこの時くらいから涙もろくなってしまったように思う。ずっと痛みに耐えてきた雪乃に慰められるのは情けない話だ。
「ついに、パパになったのよ。ほら、しっかりしないと。ねえ、桃音」
雪乃が抱きかかえている桃音に、ゆっくりと話しかける。もちろん、桃音はまだ言葉を理解していない。ただ、まるで僕を慰めて励ますかのように、小さな手で僕の指を握った。
「うん、桃音。パパ、これからもっともっと仕事を頑張るからな」
僕はその時に改めて、雪乃と桃音のためにこの命を懸けようと思った。
名前をどうするのかは、雪乃のお腹に子供がいるころから決めていた。
「この子が生まれたその時に、窓から外を眺めて見えたものにしましょう」
それは雪乃の提案だった。
「小学校二年生の時に、自分の名前にはどんな由来があるのか親に聞いてくるって宿題があったの。その時はまだ若菜とはそこまで仲良くなかったんだけど、私も若菜も生まれた時に窓から見えた物を名前の由来にしたらしくて、それから私たちは仲良くなったの」
雪乃の誕生日は一月で、飯生さんの誕生日は三月である。
「だから、子供にもそんな名前を付けてあげたいなあって思って……どうかな?」
「もちろん、この子が生まれるのがより楽しみになった」
そして、桃音は三月の三日に生まれた。
現在は、さらに弟の海星も生まれて家族四人で頑張っている。
雪乃は教師で、陸上部の顧問をしているからなかなか休日に家族そろって出かけるのは難しいし、平日は仕事と、桃音の幼稚園があるから有休でも使わないとこちらも厳しい。
だけど、夕食には家族四人が揃って、食卓を囲む。
もちろん、子供二人に食べさせることで精一杯な僕らは、二人が寝静まったあとに電子レンジで温めなおしたりする苦労を味わっている。
ただ、これはどこの家にもあるありふれた幸せだろう。
「若菜にも、二人を抱いて欲しかったな」
「きっと、天国で喜んでくれているよ」
夜、二人の世話が終わってから落ち着いた時間になると、たまに飯生さんの話題になることがある。きっとそんな僕らを、見守ってくれていると信じたい。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
僕はフロアの人たちに聞こえるように挨拶をして、会社を後にする。仕事で疲れたまま、満員電車に乗るのは億劫だったが、一本後の電車に乗る発想は無かった。
家に帰れば、雪乃が美味しい料理を作って待ってくれているだろう。今日は少し冷えるから、温かい部屋で、暖かい味噌汁が飲みたい。これ以上の幸せなんてない。
そして、桃音が小学校であったことをまるで絵本の読み聞かせをするかのように、感情豊かに聞かせてくれるのだろう。
そして、食べ物を口に含みながら話すのは行儀が悪いと、雪乃が注意するのだ。
「パパ~また、ママが怒った~」
そんなことを言われてしまうと、やっぱり僕は桃音を甘やかしてしまうのだろう。女の子が父親に懐くのは、父親は皆、娘が可愛くて仕方がないからだろう。
あと数年すれば反抗期が訪れるなんて、考えたくもない。
「ほら、桃音ももうすぐお姉ちゃんになるんでしょ。いつまでもパパに頼っちゃだめよ」
今、雪乃のお腹にはもう一つの命が宿っている。
頻繁にお腹を蹴るくらいに元気な男の子だ。彼の名前は何になるだろうか。家族四人が生まれてくれるのをいつかいつかと待っている。
何とか満員電車から降りて、歩きなれた町を体はゆっくりと、気持ちは急いで帰っている。
家には明かりと、生活感がもたらす熱が溢れていた。僕はドアを開けて、
「ただいま」
「パパ、お帰りなさい!」そう言って、僕に飛び掛かってきたのは元気盛りの桃音。それに続いて雪乃がキッチンから顔を出す。そして短く、こういった。
「お帰りなさい、あなた」
星が降る夜に奇跡を 渡橋銀杏 @watahashi
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