第5話
人は本当に驚いた時には声が出なくなるというが、それはあながち間違いではない。漫画やドラマでは驚きながらも、心の声が漏れ聞こえて状況を理解できるが、あれは単に間延びを防ぐための表現であって、現実ではありえない事がわかった。
「ひ、久しぶり……」
僕が声に出せたのは、こんな情けない一言で精一杯だった。かすれて、この時間帯でもなければ聞こえないような大きさの声。それを聞いた彼女は、くすりと笑う。懐かしい。彼女は笑うときにはいつも口元を手で隠すような癖があったのだ。
「久しぶり。中学校の卒業式以来かな」
「そ、そうだね」
必死に、間を埋めるように言葉を続ける。二年前に一度、駅で会った事があるけれど、忘れていて当然だ。高校一年の時に、昔のクラスメイトと駅であって少し話した程度のことなんて、三年以上も経てば忘れていて当然だ。その人がよほど特別でもない限り。そのことは、少しだけ心に傷をつけたが仕方ないと思いなおす。
「そうだね。久しぶりに会えて嬉しいよ」
久しぶりに見る彼女はやっぱりとても綺麗で、いややっぱりそれに更に磨きをかけたようである。たたずまいは洗練されていて、彼女がこうして座っているだけで何かのドラマやミュージックビデオの様だ。
誘蛾灯に照らされて、彼女が髪を払う仕草が良く映える。その美しい黒髪からモルフォ蝶が現れても不思議ではないくらいに。
「はい、もう冷めてはいると思うけど一応こぼれないようにとっておいたよ」
彼女が僕に手渡したのは、すでに冷めきったコーヒーだった。
一口すすると、やはり美味しくなかった。アイスコーヒーを温めたものと、ホットが冷めたものが同じ温度になっても、ホットだけが美味しくないのはどうしてだろうか。ただ、そのまずさが、僕を夢心地から覚醒させる。夢かと思ったら頬をつねるのと同じ原理だ。おかげで、慌てていた心もだいぶんと落ち着いた。
彼女は中学時代と変わらない距離感で話しているので、僕もそれに合わせようとはするけれども、背中に汗がすうっと流れる感覚が邪魔をした。僕はそれを無視することしかできない。
「うわ、美味しくなさそうな顔。そんなに?」
彼女がまるで僕をからかうように言うものだから、僕も冗談で
「じゃあ、飲んでみれば?」
そう言って、彼女に向かってカップを差し出す。
僕の手からすり抜けたコーヒーのカップは、そのまま彼女の口元へ……
「うわっ、確かにこれはひどいね」
舌を出して、苦虫を噛み潰したような顔をする彼女。
しかし、彼女がまさか冗談を真に受けるなんて思ってもいなかったので、僕としてはまたも先程の夢心地にいざなわれる。間接キスなどは、気にしないのだろうか。
そういえば、彼女は僕の気持ちを知っているのだろうか。雪乃からすればバレバレだったらしいが、意外と本人は気づかないものだ。
実際に僕が誰かに好かれていたとしても、まったく気が付かないと思う。そんな風に思えるなんて、どれだけ相手のアピールが激しいか、自分に自信があるかのどちらかだろう。
しかし、飯生若菜はそれほど自分に自信を持っても良いと思う。
基本的には女子とよく一緒にいたが、男子たちに対してもみな平等に、また友好的な振る舞いを続けていた。そのため、彼女に惹かれていた男子は僕だけではないはずだ。
長くてきれいな黒髪と、どんな人にでも分け隔てなく接する優しさ。勉強も得意で学年トップを毎回のように争っていたくらいだ。誰かに憎まれるような性格でもない。
僕の記憶が正しければ、当時サッカー部のエースだった学年一の人気者にも告白されていたはずだった。それを友達から聞いた時にはかなりヤキモキしたのをおぼえている。結果は失敗に終わったらしく、それを聞いたときも悪いとは思いながらも喜んだはずだ。
そんな人でも無理なのだから、自分などが相手にされるはずもないだろうと思って、僕はあくまで彼女の友人として中学時代の三年間を過ごした。
高校が離れることはわかっていたから、玉砕覚悟で卒業式に告白でもしてみようと思ったが、それを僕はできなかった。
怖さから逃げてしまったことを後悔した夜は、一度や二度ではない。「あ、あのさ。お礼と言っちゃなんだけど、今から飲み物を買いに行くから、飯生さんの分も僕に出させてくれない?」
今になって考えると、ひどい誘い文句である。相手の喉が渇いているかもわからないし、そもそも自動販売機で買えるようなものをお礼だなんて大層な良いようである。
何においても経験が大事である事はよくわかった。
ただ、気遣いもできる飯生さんは、
「そっか~城戸くんにとって、私の太ももってジュース一本の価値しかないんだ~」
「太もも⁉いや、そんなつもりじゃ……」
なんとなく予想はしていたけれど、僕が眠っているときに枕にしていた物、起き上がるときに手が触れた柔らかいものはどちらも、飯生さんの雪のように白い太ももであったのだ。
ただ、相手から言葉に出されるとまた違うものだ。慌てている僕を見て笑った飯生さんは、
「うそ、冗談だよ。じゃあ、オレンジジュースをお願いしてもいい?」
僕は小走りで、最寄りの自動販売機へ駆けて行った。
「ありがと、やっぱり城戸くんは優しいんだね」
言葉と、ジュースを手渡す際に触れた手が、僕の鼓動を加速させる。
「いや~ほんと久しぶりだね。で、ジュースを奢るって事は何か話すことがあるの?」
どうやら、僕の事は全て読まれているらしい。非常にわかりやすい男である。
「まあ、久しぶりに会えたんだから懐かしい話でもできたらなって」
動揺と額の汗を隠しながら、僕は遠くを見る。この瞬間にも、その綺麗な顔を見つめていたかったけれど、それをするには度胸と彼女からの好感度がいささか不足している。
「懐かしいね。三年四組は楽しかったなあ」
僕がいて、飯生さんがいて、雪乃がいた三年四組。
担任の藤田先生もこの前大学合格を報告に会いに行ったが、何も変わらずに迎えてくれた。体育祭も文化祭も成功したし、あのクラスは中学校三年間の良い思い出だ。
「花山院はどうだった?やっぱり勉強は大変?」
「まあ、勉強もそうだけど女子高特有の大変さがあったね。人間関係とか」
女の子同士の人間関係は、僕ら男では想像もつかない程に大変なのだろう。
「そっか。女の子は人間関係が難しいってよく言うしね」
「まあ、楽しかったけどね。城戸くんは高校どうだった?確か、一番厳しい私立だったよね?」
毎日十二時間の勉強が当たり前な僕の通っていた高校は、県下で最も厳しい学校として有名なのだ。
就職の時にはこの高校だから根性があるだろうと評価してくれる会社もあるらしい。
「まあ、大変だったよ。ただ、おかげで成績はかなりあがったよ」
「へえ~じゃあ、大学はそれなりに賢いところ?」
「霧島だよ。ギリギリだったけどね」
それを聞くと、飯生さんの眼差しが羨望の色を帯びる。
「え!すごい!」
母親の知り合いや、田舎のおじさんたちにもよく言われたが、やはり別格の喜びだ。
「頑張ったんだね。お疲れ様」
ああ、僕はこの瞬間のために三年間も頑張ってきたんだな。勉強ばかりしてきた三年間の高校生活が、少しだけ報われた気がした。
「じゃあ、真央とか蜜柑と同じ学科かも……って、あ!」
彼女は突如、慌てだして口をふさぐ。まるで言ってはいけない事を間違えて口に出してしまったように。そんなことをされて、気にならない人はいない。断られたら、これ以上は言及しないつもりで、僕は尋ねた。
「え~と、その真央さんと、蜜柑さんって言うのは花山院の同級生?」
「そ、そうそう。すっごくいい子なんだよ」
明らかに慌てている様子を見せたが、僕はそれ以上深堀しないことにした。彼女が言ったように、女の子同士の人間関係は難しいのだろう。
「と、とにかく。また、機会があれば紹介するね」
「うん。楽しみにしてる」
彼女は間をおくために、再びオレンジジュースを口に運んだ。
「もしかしたら、同じ学科かも。城戸くんは、なに学科なの?」
「情報工学だよ。女子が少ない学科だから違うんじゃないかな?」
僕は質問に答えながら、少し引っかかっていた。
質問の聞き方が僕の期待していたものではない。おそらくだけど……
「そっか~。ああ、二人はスポーツ科学と経営だから違うね。でも、すごくいい子たちだから仲良くしてあげてね」
「ああ、もちろん。飯生さんの友達に会えるのは楽しみだよ」
「うんうん。城戸くんならすぐに仲良くなれるよ」
僕は覚悟を決めて、一番聞きたかった質問を喉の奥から絞り出した。それは僕が想定していた声量よりもよっぽどかすれた声だった。
「飯生さんはどこの大学なの?」
僕が三年間も勉強を頑張ってきた理由。
もちろん、偏差値の高い大学に行けば就職も有利という事や、生涯年収に大きな差が出る事も、立派な理由だ。高校の教師からは耳にタコができるほど言われ続けた言葉、
「いい大学に行けば、将来は楽ができるぞ」
仕事やお金儲けが人生ではないけれど、ある意味の真理ではあると思う。
だけど、一番大きな理由は花山院からの進学率が高い事。
もしかしたら、飯生さんとキャンパスライフを過ごせるかもしれない可能性だけで、僕は一心不乱に勉強してきたのだ。その期待は、
「私?私は文正大学。法律に興味があって」
その一言で打ち砕かれた。
県内最高の霧島が唯一県内で最高の偏差値ではない学科である法学。
飯生さんは中学時代、比較的理系だったこともあり、そういう進路に進むと決めつけていたのだ。まさか、法律に興味があるなんて。
「どうしたの?急に俯いて」
気を利かせてなんでもないようにするべきだろうけど、落胆の色を隠せない。
さっきまでは緊張しながらも、必死に頭を使いながらも、傍から見ても明らかに楽しそうにしていたと思う。もしも僕がこの光景を別の視点から見ていれば、間違いなく男の子が女の子を恋い慕っている事がわかるだろう。
しかし、その瞬間に声色が二段階ほど下がる。これも傍から見れば、男の方が何かに苦しんでいるのを強がって、女の子にかっこよく見せようとしているようだ。
「ごめん、何か嫌な事でも言った?」
中学時代に連絡先を交換しておいて、受験前だけでも少し話せばわかることだったので、悪いのは全部自分である。勝手な期待を押し付けるなんて事は、間違っている。
「ああ、気にしないで。そっか、文正の法学ってすごいね」
「霧島に比べたら大したことないよ」
そう言って彼女は笑ったが、
「将来は弁護士とか検察とか、法律関係の仕事に就きたいの?」
「将来か……そうだね、法律関係かなあ」
なんだか歯切れが悪い。もしかして、触れてはいけない所だったのだろうか。さっきから、ずっと一拍おいて、考えてから話しているような節がある。
「城戸くんは将来の夢とかあるの?」
「う~ん、無難にエンジニアかな」
自分で言うのも悲しくなるが、僕は仕事にできるような才能は無いと思う。
カラオケでは八十点後半ぐらいの点しか取れないし、絵だってバランスを整えて書くことすらできない。不器用とまではいかないものの、細かい作業な苦手なので料理や裁縫も得意ではない。授業の課題くらいならこなせる程度だ。
「特技って言うよりかは、素敵なところって感じかな。城戸くんは素敵だよ」
不意に出た褒め言葉に、僕の体中が熱くなる。手には冷えた缶ジュースが握られているはずなのに、あったか~いになってしまいそうだ。
「ありがとう。僕から見れば、飯生さんのほうが素敵だよ」
勉強もできて、誰にでも優しい。気遣いも出来て、非の打ち所がない。飯生さんが言う事を、性格が悪い人なら全部が嫌みに聞こえてしまうくらいには、完璧な人だと思う。
「ふふっ、ありがと」
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