第6話
そこから僕たちは、くだらない話をした。
高校の愚痴とか、中学時代に実は誰々が誰々を好きだったとか、どうして進学もしない大学に入学金を払うのかとか、どこにでもある他愛のない話だ。
別に僕らじゃなくても、同じ年代の同じ関係性の二人を集めれば同じような話をするだろう。それぐらいには普遍的で、ありふれた会話だった。
でも、僕は飯生さんと話せている。飯生さんが僕の言ったつまらない冗談で笑ってくれる。それだけで良かった。三年近くもの間、会えないままに思い続けた僕の気持ちは、報われた。
しかし、幸せな時間はあっという間にすぎるというのは本当で、公園の時計は既に八時半を示していた。飯生さんはその時計をみて一言、
「ごめん。もうすぐ帰らないと。門限に間に合わない」
どうやら、大学生になったから門限を九時まで伸ばしてもらえたらしい。
大学生にもなって九時というのも、いささか早すぎる気もするが、家の方針ならば仕方がない。彼女の服装から見ても、そこまで厚着をしているわけではないので、これ以上引き止めて風邪でも引かせてしまっては申し訳ない。
僕は残念そうな表情を出さないように気を付ける。去り際くらいは男らしくありたい。
「そっか。門限なら仕方ないよ。ありがとう、僕の話に付き合ってくれて」
「いえいえ、誘ってもらってありがとう。楽しかったよ。あと、ごちそうさま」
空き缶を頬のあたりまで持ってきて、くしゃりという擬音が似合うような笑みを浮かべる。
「僕も楽しかった。また、会えるかな」
「会えるよ。ご近所さんだもん。その時はまた、お茶しませんか?って誘ってね」
ああ、ダメだ。いじられているはずなのに、嬉しさしか湧いてこない。
「わかった。今度はもっと美味しいものをごちそうできるように頑張るよ」
「うん。楽しみにしてる。じゃあね」
そう言った飯生さんは、ひらりと体を翻して公園の出口へ向かっていった。紺色のカーディガンを羽織った背中が、少しずつ遠くなる。
中学生の頃は、あの背中がとても遠く、大きく感じたのを憶えている。
僕よりも優しくて、勉強もできて、先生やクラスメイト達から信頼されていた彼女。
そんな彼女に、自分はふさわしくないってずっと考えてた。サッカー部のエースですらも敵わない。それでも物足りないくらいに思えるほど、僕の中にある飯生若菜という存在は絶対的だった。
自分に自信のない人にとっての恋は、ある種の信仰心から成り立つものだと思う。
あの人なら、自分にできないあんなことも簡単にこなしてみせる。
あの人なら、自分には無い、とても素敵な部分がある。
あの人なら、こんなことはしない。こんな風には考えない。
そして、それらがのしかかり告白なんて事がいかに大それたことかを自覚し、それをためらわせるのだ。誰も、自分の信じる神様を交際しようと思って信仰しているわけじゃない。
ただ、僕は努力しようと思えた。ちょうどその年に、ルックスも学力も運動も全てがダメダメな主人公の男子が、好きな人のために努力をして最後には結ばれるなんて内容の映画が流行ったことも、僕には大きな影響を与えた。
いくら自分に自信がなくても、中学生にとってはまだ世界の中心は自分や部活などであり、努力は必ず報われるという言葉を、心の底では信じられる年頃だ。
しかし、僕にとって飯生若菜とはそこまで単純な存在じゃない。そのため、学力を鍛えるだけじゃなく、何か一つの事に熱中して結果を出す。それが僕を肯定し、飯生若菜にふさわしい男になるための第一歩だった。
もちろん、久しぶりに会った彼女は、あの時よりも更に輝きを増している。
ただ、僕だってここまで努力をしてきた。別に彼女が自分よりも頭がいい男が好きなんて言ったことも無いし、そんなことを彼女は気にしないだろう。ただ、できるに越したことはない。
そんな風に無駄かもしれない努力をできることが、僕が飯生若菜を思っている何よりもの証拠だった。
「あんなに一人の事を思って努力できたんだ。もう少し自分とその気持ちに自信を持っても良いんじゃないのか。もしもダメだとしても、彼女なら上手くやってくれるさ」
その言葉を発したのが、俗に言う天使なのか悪魔なのかはわからなかったけど、僕の気持ちは決まった。ダメで元々の話だ。
いつの間にか僕の足は、彼女が歩いて行った方向へ向かっていた。
「飯生さん」
無意識に声まで出てくる。もしも彼女が気づかなければ手を掴んで引き止められるくらいには、僕の気持ちは固まっていた。既に頭には血が巡ってきて、まともな思考はできない。
僕が名前を呼んだ相手は、僕の方を振り返りこう言った。
「どうしたの?城戸くん。何か置き忘れてた?」
立ち止まった飯生さんの前で、僕は胸に手をついて息を整える。
たったこれだけで動悸がおさまらないなんてダサいだろうけど、それでもいい。
僕は飯生さんに伝えないといけないことがある。そして、それは今日伝えなければいけない気がしたのだ。
「飯生さん!」
呼ぶというよりも、叫ぶと言った方が正しいくらいの迫力で愛する人の名前を口にする。
「はい」
その迫力に圧倒された飯生さんは、固まっている。怖がらせて申し訳ない。
だけど、
「中学生の頃から、ずっと好きでした。僕と付き合ってください」
この言葉を伝えるには、勢いくらいつけないと無理だ。
好きだって言うのがどれだけ難しいのか、そもそも人を好きになることがどれくらい難しいものなのか。
たぶん、ほとんどの人にとっては世界で一番難しいのかもしれない。僕にとってもそうだ。だから、勇気を振り絞った僕に免じて、怖がらせたことは許して欲しい。
「え?城戸くんが私の事を好き?」
僕は顔を下に向けて手を差し出しているので飯生さんの表情はわからないが、声色から察するに戸惑っているのだろう。雪乃からはかなりわかりやすいと言われたが、飯生さんは気づいていなかったみたいだ。
少しの静寂が流れる。ふと、視界の端、ちょうど飯生さんが立っている方のアスファルトに、まるで雨粒が落ちたような染みが一つ現れた。
今日は一日中雨が降らないはずだ。さっき空を眺めた時も、雲一つない空を月明かりだけが照らしていた。
飯生さんのいる方向から鼻水をすする音が聞こえる。
もしかしてと思い、僕が顔を上げると飯生さんが声も出せずに泣いていた。
「え?ご、ごめん。泣かせるつもりは無かったんだ。ごめん」
僕は慌ててハンカチを取り出す。飯生さんに手渡すと、彼女はゆっくりと涙を拭った。
まずい、どうしてこうなるんだ。さすがにここまでの事は想定していなかった。僕は、先ほどまでの自分を恨んだ。
自分がどんな気持ちだとか、どれだけ辛いかなんて些細な事だが、彼女を傷つける事だけはしてはいけない事だ。今すぐにでも過去に戻ってその時の自分を殴ってやりたい。
「違うの。城戸くん。大丈夫」
ああ、どうしよう。泣かせたばかりか、気を遣わせている。涙を流す彼女も、とても綺麗……だなんて考えてる場合じゃない。何か、何か気の利いた事を……
「大丈夫って、ごめん。ほんとに泣かせるつもりは無かったんだ」
経験不足からくる僕の状況に応じたボキャブラリーの少なさが、ただの弁明しか生まない。
悲しいとか、これから飯生さんとどう接すればいいのかという事よりも、彼女を泣き止ませないといけない。今の僕にはそれしか考えられなかった。
「……違うの」
鼻をすする音と、海風が木を揺らす音のわずかな間に、彼女の声が聞こえた気がした。
「違う。違うの。嬉しくて」
「嬉しくて?」
彼女は右手で涙を拭いながら、左手で僕を引き寄せるようにそっとシャツの胸元を掴んだ。しかし、その腕に力は入っておらず、代わりに彼女が僕に近づくようになっている。
彼女との距離が縮まったおかげで、僕の耳は彼女の言葉を一言一句、違わずに聞き取れる。
そのため、次に彼女が発した言葉は聞こえなかったわけでは無く、言葉の意味が理解できなかったのである。もちろん、これは僕のせいではない。状況が状況だったのだ。
「ねえ、もう一度言って」
「え?」
「だから、もう一度告白して」
どういう事だろう。告白したせいで泣かせてしまったのに、もう一度告白してくれなんて。
ただ、この時に彼女を泣き止ませる方法は僕自身では思いつかない。それくらいの事は理解していたので、彼女の言うとおりにせざるを得なかったのだ。
「飯生さん。中学時代からずっと好きでした。僕と付き合ってください」
さっきよりも勢いはない。だけど、気持ちはこめた。その言葉を聞いた飯生さんは、安心したような笑顔で、
「はい。私も城戸くんの事が好きです。よろしくお願いします」
僕の胸に飛び込んでくる。飯生さんの顔が、僕の肩に乗り、彼女の涙で少しだけ濡れた。
「え?」
わからないことだらけだ。簡単に整理すると、先ほど僕が思いを告げた際には泣き出したはずの彼女に、再び告白することを迫られた僕は言われたとおりにした。
すると、彼女は笑顔で微笑み、今は僕の腕に抱かれている。こういう時には脳よりも脊髄のほうが処理速度の速さにおいて優秀で、僕の両腕は彼女の背中で繋がれている。
それに気づいた彼女も、僕の背中に両手をまわしてしっかりと繋いだ。
彼女が顔をあげると、ほんの数センチ先には僕の顔があり、彼女は笑顔でこう話す。
「よろしくね、彼氏くん」
とにかく、僕と飯生さんは晴れて恋人になったわけだ。
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