第7話
恋人になったからと言って飯生さん家の門限が変更されるわけでは無いので、僕たちは連絡先を交換し、後の話はメールですることにした。僕からすれば一瞬のようでもあり、何時間も経過しているような時間が過ぎたが、門限が迫っている。
家まで送ろうと提案したが、恥ずかしいからと断られてしまった。
不審者が少ない地域ではあるが、この時間帯に女性が一人でいるというのはかなり危険である。僕は何度も説得しようとしたが、結局は押し切られてしまった。
残念に思う気持ちはあったが、今日は大人しく引き下がることにした。
僕が帰宅すると、いつもと変わらず母親に晩飯を急かされた。早くメッセージを送りたいと思っていたが、もう少し落ち着いてからでもいいだろう。電子レンジで冷めたご飯とみそ汁を温めていると、それを見ていた母親から
「あんたなんでそんなにニヤニヤしてるのよ。気持ち悪いわよ」と言われてしまった。
ただ、仕方ないだろう。幸せな人に幸せそうな顔をするなというのが無茶だ。無理やり平静を装ったりする必要なんて、公序良俗に反しない限りはない。
洗面台についている鏡の前で決めポーズをしたり、湯船につかりながらラブソングを歌ったりするのも仕方がない事なんだ。幸せだからいって手を叩きだすよりはよっぽど理屈が通っている。
僕は三曲ほど熱唱し、風呂から上がる。普段はリビングでダラダラとテレビを見るのが習慣だけど、この日は二階にある自室に直行した。理由は一つで、メッセージの着信を確認するためだ。
スマホを起動させると、ぼんやりと光る画面に新着メッセージ一件と表示されていた。
すぐさまメッセージアプリを開き、確認する。
『城戸くん。こんばんは。今日はありがとう』
恋人になったばかりの緊張したメッセージが送られていた。こんなところも可愛いなあ。
中学時代飯生さんはスマホを持っておらず、彼女は女子高に通っていたので、もしかすると僕は飯生さんが初めてメッセージを送った男子なのかもしれない。そう思うと、また一段とテンションが上がる。おかしくなってしまいそうだ。そうだ、既読をつけたんだから返さないと。
『こんばんは。こちらこそありがとう。門限には間に合った?』
僕がそのメッセージを送った途端。メッセージの左に既読の文字が表示された。
もしかして、僕が返信するまでずっとアプリを開いて待っていてくれたのかもしれない。そう思うと、心がまた勝手にはしゃいでいる。
『うん。大丈夫だったよ』
『そっか、良かった。あと、改めてありがとう。僕なんかと付き合ってくれて』
『うん。だけど、僕なんかって言わないで。城戸くんは素敵だよ』
『ありがとう。飯生さんにそう言ってもらえると嬉しいよ』
この会話中、僕は彼女の返信に悶えてはメッセージを送り、また彼女からのメッセージに悶えるのを繰り返していた。体が熱くて、ひんやりとしたベッドシーツが心地いい。」
『うん。それは良かった。でさ、一つだけ気になってることがあって』
『気になってること?』
『城戸くんと飯生さんってなんだか他人行儀じゃない?』
『じゃあ』
三文字だけ打って、ゆっくりと息を吐く。予測変換に出てくる文字が、僕の心をくすぐる。
毎日の就寝前に一人で呟くその名前。ふとした瞬間にいつの間にかノートの余白を埋めて、それをクラスメイトに見つからないように消した名前。愛する人の名前。
『若菜って呼んでもいい?』
このメッセージを彼女はどう受け取ってくれるのだろう。
飯生さん……じゃなくて若菜の言ったことはそういう意味だと思うが、もしかすると別の意味があるのか?わからない。恋愛未経験の僕には難しすぎる問題だ。
『うん、じゃあ私も優斗って呼ぶね』
僕の声にならない悲鳴が、部屋中にこだました気がした。優斗。自分がこの名前に生まれて良かったと思えた瞬間だった。飯生さんが僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。実際に声を聞いたわけでは無いが、脳が勝手に三文字を繋ぎ合わせてくれる。なんて幸せな音色なんだ。
『うん。若菜』
『なんだか照れるね。画面の向こうで緊張してるのが伝わってるよ~』
『まだ慣れなくてさ……』
『私もまだ慣れないし。ゆっくり、たくさん、お互いの名前を呼ぼ?』
その下には黄色い顔のキャラクターが笑っているスタンプがあった。
『うん、若菜』
『優斗』
なんだかくすぐったい。お風呂にはいったばかりなのに、また汗をかいてしまった。
『ごめん、もうすぐ親にスマホを預ける時間だから。また、明日ね』
飯生家はこういったところまで徹底している。名残惜しいが、無理に逆らうのも良くないだろう。このままメッセージのやり取りを続けていれば軽く夜を越せてしまいそうなので、お互いの明日から始まる学校生活のためにも、僕は大人しく切り上げることにした。
『わかった。おやすみ。若菜』
『おやすみ。優斗』
それから、スマホが勝手に明るくなることは無かった。
だけど僕は、そこからスマホを抱えてベッドで一人、悶えていた。
可愛すぎる。僕の彼女が。今までに触れたどんなラブストーリーのヒロインよりも。
スマホの通知音で、僕は目が覚めた。それほど大きな音には設定していないはずだけど、いつもはアラームをかけてもなかなか起きられない僕を呼び起こすには充分だった。
『おはよう優斗。今日から大学だよね。もしかして、まだ寝てた?』
『おはよう、ちょうど起きたところだよ』
ありきたりな目覚めとして、小鳥のさえずりがよく小説で用いられるけど、そんなものよりもただの機械音が美しく聞こえるなんて初めての事だった。夢のせいでぐっすりは眠れなかったが、既に体力は回復している。
再び、通知音が鳴る。しかし、世の中には嬉しい事の後には悪い事があるものだ。
『え!起きたばっかりって、時間は大丈夫なの?』
僕は慌てて時計を確認し、
『ごめん。大学終わってから連絡する』とだけ返事して、急いで階段を下った。
朝食、歯磨き、洗顔を終えた僕は、自室に戻り着替える。中学高校と制服で過ごしてきた所から、私服に戻るので、普段から私服に興味がない僕のような人間にとっては、毎日服を選ぶというのは少しだけ億劫だ。まあでも、付き合ったのだからデートに着ていく服ぐらいはしっかりしていこうとは思う。
『了解!お互いに頑張ろ~』
慌てていたこともあって、僕がそのメッセージに気づくのはバスに乗ってからだった。
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