第8話

 大学の入学式も中学や高校と特に変わらず、面白味の無いものだった。まあ、入学式とはそんなものなのだろう。卒業式は比較的豪華だと聞いているので、四年後が少しだけ楽しみだ。

 式が終わり、電気を切らされていたスマホを起動すると若菜からのメッセージが届いていた。『こっちは入学式終わったよ。そっちはどう?』

『こっちもちょうど終わったよ。今から必要な参考書を買うから昼頃には帰るかな』

『じゃあさ、帰りに合流してご飯でも食べない?』

『いいよ。終わったら連絡して』

『りょーかい。頑張ってね』

 

 そこから大学構内にある本屋による。事前に教授から全体に通達されていた書籍は、大学内ならある程度の数を用意されているらしい。すんなりと購入し、大学を出る。

『終わったよ。そっちに向かった方がいい?』

 少しして、彼女からのメッセージが届く。

『わかった、今はどこにいるの?』

『ちょうど大学を出たところだよ。もうすぐバスが来そう』

『じゃあ、とりあえずそれに乗って』

 ちょうどよく来たバスに乗り込む。行き先は指定されていないけれど、キャンパスは山の上にあり、終点なのでとりあえず乗れば問題は無いだろう。

平日の昼間に乗るバスは空いている。隣に教材の詰まった紙袋を置いて、イヤホンで音楽を流しながらバスに揺られる。

僕がちょうど一息をついたその瞬間だった。

僕の視界が暗闇に覆われた。驚いたけど、バスの中で大声は出せないのでなんとかこらえた。どちらかと言えばホラーやドッキリ系は苦手なのだが……

「だ~れだ」

 僕の耳元で、いたずらをした子供の様に囁く。その時点で僕は昇天しそうだったのは隠しておこう。なんだか変態だと思われそうだ。

 僕は自発的に公衆の面前でいちゃいちゃできるほどの強メンタルではないから、彼女の手を取ってゆっくりとおろす。振り返ると、ちょうど彼女の隣にも空席があったので、僕は信号でバスが停車するのを待ってから移動した。

「お疲れ様。時間は大丈夫だったの?」

「まあ、ぎりぎり間に合った。メッセージの通知が無かったら寝過ごしてたよ」

「そうか、それは良かった。これからは毎日、時間に間に合うように朝の連絡をしてあげましょう。ぐーたらな夫を起こすのも妻の役目ですから」

「いつから僕たちは結婚したんだっけ?」

 僕の合いの手は間違っていなかったらしく、彼女はバスのマナーを守るために声を押し殺して笑っていた。一方の僕は、妻という響きの良さに感動していたところだ。

「でさ、話はかわるんだけどね。実は高校からの友達にもう話しちゃったんだよね」

「話したって?」

「その~優斗……のこと」

 メッセージでは、昨晩に何度か予習したお互いの名前。しかし、その破壊力は向かい合うだけで何倍にも膨れ上がる。僕も彼女も完全にあがってしまっていた。

「そ、そうなんだ」

 気休めに程度に、適切な気温で保たれているはずの車内にも関わらず手で少し風を起こす。

「それでね、友達が水族館のチケットあげるから二人で行ってきなよって言ってくれたんだよね」

 彼女が財布から取り出したのは、ここから電車で五駅ほど行ったところにある県内では最も有名な水族館のチケットだった。確かに、デートスポットの定番ではあるだろう。

「いいの?だって、あそこは高いでしょ」

「なんか、その子が付き合っている男の子とこの春から遠距離になるらしいから、最後にでーとするつもりだったけど、結局は忙しくて行けなかった余ってたみたい」

「余ってたのか、じゃあ良いかな」

 事情があるので、多少の罪悪感はあったけれど、もらえる好意はあまりしつこく断り続けるのも失礼だ。お礼になるかはわからないけど、水族館の物販で何かしらを包んでもらえばいいだろう。

「そっか、そう言ってくれて良かった。じゃあ、とりあえずそっちでご飯も食べる?」

「そうしよっか」

 僕らはバスと電車を乗り継いで、水族館前駅に向かった。

 水族館駅は、その名の通り水族館に最も近い駅で、休日にはかなりの利用者が訪れる。

 ここらも自治体による開発に指定された地域なので、駅の周りにはそれなりに飲食店やコンビニがある。水族館内でご飯を食べるのも悪くは無いが、味と値段を考えれば飲食店で済ませたほうがいい。

「この角を曲がったところに美味しいお店があるんだって」

 僕は彼女を連れてバスの中で調べておいた洋食屋さんへ向かった、しかし

「休み?」

 そこにはシャッターが下ろされて、入り口のドアノブに休みという看板が掛けられた店があった。

 僕は慌ててスマホを起動する。店の名前は間違っていない事を確認してから、営業情報の欄をみると、そこには確かに月曜が定休日という表示があった。見落としていた。

「あ~まあ、仕方ないね。どうする?」

 彼女は僕のスマートフォンを覗き込んで、状況を把握した。

「ごめん。もっとしっかり調べておけば」

「いいよ。初めてのデートなんだから失敗するだろうし」

「でも……」

 続きの言葉を言いかけた僕の口を、彼女のの人差し指が塞ぐ。

「いいの。その代わり、私が失敗しても許してね」

 そう言って、彼女はは笑った。綺麗だ。そう思った瞬間、風が散るタイミングを逃した桜の木を揺らし、桜の花が彼女の頭部にそっと乗った。

 まるで、狸が人間に化けるときに葉っぱを頭にのせるのと同じぐらいの場所だった。

思わず、僕は笑ってしまった。そんな僕を見て、

「え?何?なんで笑ってるの?」

 戸惑う若菜の姿が可笑しくて、僕はまた笑ってしまった。

 やっぱり、神様は僕の味方らしい。


結局、僕たちは水族館の中にあるレストランで昼食をとることにした。

やはり、春休みを利用した家族連れの姿が多い。よく、小学校の遠足などでも使われるような場所であることからも、水族館は子供に人気のある施設なのだろう。

少し薄暗く、どことなく幻想的な館内はデートスポットとしても人気なのもうなずける。まあ、カップルになったばかりの人でも安心して利用できるという点でだ。

「ここの水族館ってイルカショーが有名なんだって」

 無料のパンフレットを片手に、時間を確認している。昼食をとる時間帯だから、イルカも合わせて休憩をとるらしく、二時間以上は開催されないらしい。

 ご飯を食べて、ゆっくりと回っていればちょうどいい頃合いだろうか。

「へ~イルカって中学校以来かな」

「あ~修学旅行の二日目だよね。あれ以来なの?」

 まあ、水族館は基本的に男同士で行くことを想定して作られた場所ではないだろう。

よっぽど海洋生物が好きでもない限り、元気が有り余っている高校生男子が、大人しく魚を見ていられるわけがない。

「うん。確か。もう五年近く前だからあんまり覚えてないな」

「そっか、もう五年も前なんだ。優斗君も年を取ったね」

僕たちは中学校三年生の修学旅行で、国内外問わず有名な水族館を訪れた。

あまり水族館事情には詳しくない僕でもわかるくらいには、種類や量、サービスが充実していた。まあ、友人たちは口を揃えて水族館という場所に不平不満をこぼしていたが。

修学旅行のスケジュールは、一日目が海で二日目が水族館だった。

一日目は、海での自由時間と、スキューバダイビングや新鮮な魚料理などの魅力的な行程で目白押しだった。それに比べると、大きなイベントが水族館しかないのは、二日目に文句が出ても致し方ないことかもしれない。

ただ、僕は二日目の方が楽しみだった。理由は単純である。

同じ班に、飯生若菜、つまりは今、ちょうど隣にいる可憐な少女がいたからである。


僕が若菜を初めて知ったのは、クラスが一緒になった中学校二年生の話だ。

その時には、

「なんだか可愛い子がいるなあ」

くらいにしか思っておらず、雪乃と若菜の仲が良かったこともあって、たまに雪乃を介して話をするくらいの関係だった。二人きりでいたことなんて、たぶん数えられるくらいの時間しかないだろうし、向こうはどう思っていたかはわからないけど、僕の方は少し気まずいなんて感じていたはずだ。俗に言う、友達の友達である。

ただ、交際経験の無い十四歳の男なんて、可愛い女の子と話をしているという事実だけで舞い上がれるほどには単純だから、少なくとも僕は若菜に対して好感を抱いていた。

そして、その気持ちがいつから恋に変わったのかはよくわからない。

初恋なのだから仕方ないだろう。一緒にいると胸がドキドキするとか、一日に三回その人の事を考えるなどの例えはよく聞くけれど、実際に恋をしないとわからないものだ。

 ただ、修学旅行の段階では間違いなく恋をしていた。

 友達を上手く誘導して、若菜と雪乃と同じ班として水族館を回ろうとあれこれ画策していた記録が、今もメッセージアプリ内には残っている。

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