第9話
「私、水族館って初めて来たんだ~」
「え?」
つい先ほどまで、修学旅行の話をしていたんだけれど……
「っていう女の子がよく言うけれど、ああいうのって男子からすれば嬉しいの?」
ああ、そういう事か。一瞬、彼女が記憶喪失かと疑ってしまった。
「う~ん、僕は気にしないけども、嬉しい人は多いんじゃないかな」
男は何事においても最初であることを重要視する人が女性に比べると多いのは、比較的有名な話だ。実際に僕も、彼女のメッセ―ジが初めてかもしれない事を喜んでいたのだから。
「そっか、話は変わるけどさ、私、食事って初めてなんだ~」
「いったいどういう風に生きてきたのか、大学四年間の研究を捧げてもいいくらいには興味がある話だね」
「うわっ、彼女を研究ってなんかいやらし~」
彼女が両手で自分の体を抱くものだから、僕もそういう思考に至らざるを得ない。
「いや、思春期の男子でもそんな風には考えないよ」
そう言って僕は、水族館内にあるレストランのドリンクバーでとってきたオレンジジュースを、コップ一杯まるごと飲み干した。
「しかし、こんなに綺麗な場所でご飯が食べられるなんて、不幸中の幸いだね」
レストランから、すぐ横の大水槽が見える。そこには大小さまざまな魚たちが泳ぎ回っていて、これだけで何時間も飽きずに見ていられるほどだ。
「いや~逆に良かったんじゃない。こんなところでご飯を食べる経験なんてなかなかできるものじゃないよ」
さらに、テーブルの間にも小さな円柱型の水槽が点在しており、小さな子供たちは両親よりも早く食べ終えて、その水槽に近づいてじっと魚を見つめている。
料理と景色、雰囲気も含めると、一概には高いとは言えなかったのも事実だ。全国の水族館内レストラン経営者の皆様に、謝罪をさせていただきたい。
「そういえば、写真とかをネットにアップしないの?」
僕はあまり詳しくないけれど、最近の若者は様々なアプリを使って、綺麗な写真を知り合いと共有しているらしい。雪乃に一度だけ勧められたけど、僕には合わなそうなので断った。
「あ~うちは親がそういうのはあんまりよく思ってなくて……」
そういえば、そうだった。いかにも、そういった物に反対しそうなタイプである。
「まあ、憧れが無いわけじゃないけど、そんなに興味は無いかな。優斗もあんまりそういう事に興味はないでしょ?」
「まあね。どんな写真を載せたらいいのかもわかんないや」
「じゃあ、いいかな。記念写真だけとろうよ」
そう言って彼女は、僕と自信と料理がギリギリ映るくらいの写真を撮った。
これが僕らの、付き合ってから初めてのツーショットである。
ちなみに僕が記憶している限りでは、修学旅行の写真販売で、奇跡的に僕と若菜だけが映っている写真があった。
親にもばれないよう、お小遣いから出したお金を封筒に入れて提出したのを憶えている。
ご飯を食べ終えた僕がトイレから戻ってくると、そこには子供たちに混ざって水槽を眺める彼女の姿があった。どうやら、子供たちに魚の事を教えてあげてるみたいだ。
「ねえねえ、お姉ちゃん。この魚さんのお名前は?」
「この子はね、カクレクマノミって言うんだよ」
「じゃ、じゃあこっちは?」
「そっちは……え~っと、ちょっと待ってね」
レストラン内の水槽には、魚の詳しい説明が記載されていなかった。カクレクマノミは魚の中ではかなり有名だからわかったんだろうけど、さすがにそれ以上は一般的な知識では厳しい。
「こっちは、ナンヨウハギ。実は、毒を持っているんだよ」
僕は彼女に助け舟を出すべく、魚に関する付け焼刃の知識を子供たちに披露した。元々は、彼女の少しでもいいところを見せようと、トイレでさっと調べてきただけだが、結果はオーライだ。
「へ~お兄ちゃん凄いね、じゃあこっちは?」
そう言うと、子供たちは彼女の手を離れて僕の下によって来る。
どうやら、別の魚がいる膵臓の前に連れていきたいようで、僕よりも一回りも二回りも小さな手が、懸命に僕の手を引く姿は、見ていてとても愛らしかった。
「優斗って、魚に詳しいの?」
「ま、まあ……ちょっとくらいは知ってるかな」
彼女の声には若干、不機嫌の色が混じっていた。
どうやら、子供たちからの人気を僕に奪われた事が気に入らないらしい。わざとらしく頬を少しだけ膨らましているのは、彼女のあざとさや魅力の表れと言えるだろう。
すると、子供たちのなかにいた女の子が、興味津々に僕に問う。
「ねえねえ、お兄ちゃんとお姉ちゃんって恋人?」
見たままで言えば、ちょうど愛とか恋を日本語の一つとして、少女漫画における物語のスパイスとして知り始めたくらいの年齢だ。興味がわくのも当然だろう。
「そうだよ」
「じゃあ、チューしたことあるの?」
「ちゅ、チュー?」
なんてませた子供達だ。キスなんて付き合ったばかりの僕たちがしているわけがない……のは彼ら彼女らの知ったところではない。最近の子たちはみんなキスぐらいこの年齢でも知っているのだろうか。
チューという言葉に、子供たちはさらに色めきたつ。
「え~したことないんだ。じゃあ、ここでしてよ」
子供たちの期待をはらんだ視線が、一斉に僕へと突き刺さる。これが、悪意などが全く混じっていない純粋な好奇心からくるものだから、更に僕を困らせる。
「若菜、どうする?」
助けを求めようと彼女の方を振り返ると、目を閉じて唇を少しだけ突き出して立っていた。ダメだ、こっちは僕を助ける気が無い。これに乗じて僕を困らせようとしている。
「おお~お姉ちゃんは大胆~」
「ほら、男がしっかりしなきゃだぞ」
口々に飛び交う子供たちの声は、やがてレストラン中に響き渡るほどに大きくなっていく。そのせいで、僕ら二人はレストラン中の注目を集めていた。
そんな状態に僕が困り果てていると、
「こら、お兄さんとお姉さんに迷惑かけちゃダメでしょ」
子供たちの両親が、僕たちを助けに来てくれた。あまりにも騒ぎが大きくなったため、見知らぬ大学生らしき人たちが親切に魚の事を教えてくれているだけではないと気づいたのだろう。
「すいません、うちの子が迷惑をかけて」
「いえいえ、助かりました」
父親らしき人が僕らに頭を下げるけど、僕も彼女も気にしていないから大丈夫だ。
彼女が目を閉じた時にはさすがに慌てたけど……
子供たちも愛する両親に迎えに来てもらったのが嬉しいのだろうか、笑顔で母親の後をついていく。
「じゃ~ね~」
僕らは、笑顔で小さく手を振り返していた。少ししたら、僕らも館内を見て回ることにしよう。
僕らはお互いに子供好きというのもあって、水族館内に響く子供たちのはしゃぐ声も、デートの邪魔にはならなかった。また、変にデートであることを意識せずにいられたのも、そのおかげである。
「晩御飯はお寿司でも食べない?」
「それを水族館で言うのは、なかなかだね」
こんな軽い冗談を言えるくらいには、お互いがリラックスしていた。
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