第2話
「優斗~朝さっさと片付けちゃって~」
翌朝、僕はその声で、僕は眼を覚ました。もちろん、自分で起きてこないのが悪いんだろうけど、できれば小鳥のさえずりとか、そよ風が窓にぶつかる綺麗な音で目を覚ましてみたい。それらとは遠くかけ離れた、階下から響く母親の声がいつもと変わらない日常であることをいやが応にも知らせてくる。
もしもそうしたいなら、大学生なんだし下宿すればいい。それも考えなかったわけでは無いけれど、料理もできない、掃除とか洗濯も好きなわけではない。そんな僕が一人暮らしを始めたところで上手くいくはずがない。それをいうなら一般的な男子大学生も同じような価値観を持っていると思うので、最近では下宿する人も減っているそうだ。いたって正常な判断であり、お金の節約にもなる。
「早く降りてきなさ~い」
まあ、一人暮らしに憧れはあるが、なんとなく一人暮らしという響きが良いからに他ならない。実際に体験してみればそれはいろいろな苦労が付きまとうだろうし、せめて自分の稼ぎで家賃を払えるようになってからの方が気持ち的にも現実的にも良いと判断した。大学生になってアルバイトをすることにも憧れはあるけれども、程よく勉強しながら遊びに行ったりもしたいので、さすがにそこまで稼げはしないだろう。高校三年間は血を吐く思いで勉強してきたのだから大学生活は充実させたい。
人並だと笑われるかもしれないけど、男友達と若い時にしかできないような貧乏旅行や、恋人なんかも作ってみたいという気持ちもあるけどそれはまだ無理そうだ。
母親の作った味噌汁をすすり、ご飯を書き込む。いつもの朝のメニューである。
僕は朝ご飯を食べ終えると、すぐに自室に戻って出かける準備をした。
行き先はバスで十分ほど揺られた先にあるショッピングモール。映画館や観覧車がついているようなものと比べれば小さいが、買い物するくらいなら十分な大きさがある。大学生活に向けて、最低限の物を買いそろえるためだ。
イヤホンから流れる流行りの音楽を聴きながら、バスに揺られる。車酔いがひどい自分は携帯を見ていると気分が悪くなる、そうなると特にすることも無いので、ぼんやりと窓の外を眺めていた。もう何度も見た景色だ。
僕が住んでいる与国町は郊外のニュータウンと呼ばれる地域である。
近年、都市部の目覚ましい発展に伴い、東京や京阪神などの中心地で土地不足が問題となっている。その対策として政府や自治体は、地下鉄や高速道路などのインフラ整備を進めて、周辺地域の充実を図ったのだ。それらをまとめて新しい町、ニュータウンと呼ぶ。そのターゲット層としては、働き盛りの二十代後半から三十代前半の夫婦である。そのため、子供の健やかな成長を促すとして、町の中には比較的緑が多い。まあ、住んでいる感想としては良くも悪くもない場所だ。
ただ、僕は与国町以外には住んだ経験がないので、良さに気づかないだけかも知れない。意外と、他県の人から見れば良いところがあるかもしれないけどそんなものはどこも同じようなもので、結局はないものねだりだ。
バスが止まり、入り口付近は混雑しているので、僕は少しだけ待ってからバスを降りた。外は快晴で、日差しが少し痛い。まだ四月になったばかりだが、ノンスリーブの白いワンピースに麦わら帽子をかぶった女の子に似合いそうなくらいの暑さだ。綺麗な青空が、思い切り広げたレジャーシートのように視界を覆いつくす。その青を背景に、白く映えるモールの中に、僕は足を踏み入れた。
「えっと、まずは文房具か」
与国モールの二階には、文房具に加えて、衣類や雑貨を取り扱うお店が肩を並べている。もう小さなころから何度も来ている場所だから、思いつくとすぐに体が動いている。エスカレーターの方へと、意識するまでもなく歩き始めていた。
男一人の買い物、それも目的のものが決まっている場合は非常にスムーズである。
そもそも買うものを予め決めるので、ひたすらそれを探し、見つかれば買い求めるだけだ。僕は買い物が好きではないので、自分の興味がないエリアには足を運ばない。興味があるのは読書と文房具くらいだから、すぐだ。
ものの三十分もしない間に、僕は目当ての物を全て買いそろえた。
「さて、することもないし。適当に腹でも満たして帰るか」
せっかく来たのだからフードコートで何か食べてから、家に戻って部屋の掃除でもするかと考えていると、突然後ろから声をかけられた。
「優くん!」
優くんとは、僕が中学時代にある特定の女の子から呼ばれていた綽名だ。つまり、声をかけてきた人は誰か一瞬でわかる。三年ぶりに聞いた声なのに、それはあまりにもその前の三年間に耳になじんでいたのか、自然と振り返ることができた。
「久しぶり! 元気にしてた?」
中学校時代の同級生である、深咲雪乃がそこにいた。
英語が刺繍された黒いキャップが、生まれながらに色素が薄い栗色の髪に良く似合う。すらりと伸びた手足に、自然とこちらのパーソナルスペースに踏み込んでくるコミュニケーション能力の高さに、男子校で三年間も勉強しかしてこなかった僕はどうしてもドキドキしてしまう。
「あ、ああ。そうだよ」
「ちょっと何そのリアクション。もうちょっと喜んだら? せっかく幼稚園から中学まで一緒にいた同級生に久しぶりに再会したんだから。」
僕は普段から連絡をこまめにとるタイプではないので、家族以外の人と話したのはずいぶん久しぶりだ。そんなことを求められても困る。人は普段から使わない能力は、次第に衰えていくものなのだ。
とりあえず、思いついた無難な言葉を口にする。
「久しぶり、元気にしてた?」
「そりゃあ、もちろん。で、優くんは何をしてたの?」
僕の返答が何であろうとお構いなしに、彼女は自分の話題を続ける。
「まあ、明日からの授業で必要なものを買いに来ただけだよ。今から帰るとこ」
そう言って僕は、買い物袋を雪乃の目の前に掲げた。
説明責任はこれで果たしたはず。ただ、僕の買い物袋を握る手の上に一回り小さく、白くて綺麗な手が重ねられていた。いや、重ねるというよりも掴んでいる。
彼女は僕の手を掴んだまま、下に向かって移動させる。それによって僕の視界にあらわれた彼女の顔は、まるでお手本のような笑顔の表情だった。
「じゃあ、暇って事だね。というわけで、買い物に付き合って!」
何がどういうわけかは全く分からない。
唯一わかったのは、僕は既に逃げられない事だけだった。
「ほら、この服はどう?あ~でもこっちも可愛いなあ」
雪乃は姿見に映る自分と相談しながら、どの服を選ぶか迷っていた。場所はモールの三階にある女性向けの服屋さん。もちろん、僕からすれば縁のない場所で店の名前をなんて読むのかもわからない。下手に傷つきたくないから黙っていた。
「ねえ、優くん。どっちがいいと思う?」
こういう時には、どっちも似合うと言うのが正解って誰かが言っていた気がする。
そうでなくても、雪乃のスタイルならなんでも着こなせるし、僕に服の良しあしなんてものはわからない。せめて、僕がどっちを好きかくらいしかわからないけれども、そんなものを雪乃は重要視しないだろう。
「そうだな。雪乃ならどっちでも似合うんじゃない?」
「なにそのテキトーな返事。もうちょっとやる気を出してよ」
まあ、文面をそのままコピーしたのは良くなかったとは思うけど、どっちも似合っているのは本当だ。雪乃は、自分自身にどんな服が似合うのかをよく知っている。
「雪乃は元々、センスがいいんだから気にしなくてもいいよ」
全体的に黒を基調とした配色で、スニーカーだけは派手な色をしている。
オシャレに自身の無い僕でも、彼女がどこに自信を感じていて、注目を集めたいのかよくわかる。全身にお金をかけずにオシャレに見せるには、こうするのがいいのだろう。性格も見た目もどちらかと言えば若く見られがちなので、肌の露出は少なく、サイズは一つ上で統一しているらしい。そうすることによって、より童顔と明るい髪色を生かせるというのは、本人談である。そこまで考えて服や靴を選んだことのない僕には目からうろこだったけど、実践するかは別の話。
「どう? セクシーでしょ。初心な優くんには刺激的すぎるかな」
確かに、彼女がネタで試着した背中が半分以上出ている服も、セクシーというよりは寒そうだった。あれを着てセクシーに見えるのは、モデルでもない限りは難しい。彼女のいう、その人に似あうか似あわないの定規で測れば、これは似合わないのだろう。首を横に振って否定の意志を示しながら、僕は答えた。
「はいはい。顔が熱くなって鼻血が出てきそうで困るよ」
「何それ。まあいいや、買ってくるからここで待っててね」
そう言いながら、雪乃は僕がどっちも似合うと言った服を二つとも手に取ってレジの方へと小さくステップしながら歩いて行った。
「やれやれ……」
溜息は出たけど、思ったよりもその溜息は重たくはなかった。
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