星が降る夜に奇跡を
渡橋銀杏
第1話 プロローグ
空模様は快晴と言っても誰にとっても差し支えなく、比較的に万人うけをするぐらいの天候と気温だった。春の本番を迎える前の風は優しく僕の体を包んで、じんわりとその小さな隙間から内側へと入り込んでくる。もう寒さなんてものはどこか遠くへと春一番に押し流されて、今はこうして日も沈んだのにゆったりとしたシャツで公園のベンチに欠けていられる。横目に公園の中央に設置された時計に目を向けると、時刻は十九時で長針が少し短針を追い越したくらい。
街には会社帰りのサラリーマンや、部活を終えた中高生。どこかで遊んでいた小学生らしき集団も見える。颯爽とその自転車が駆けていく様を見て、元気だなと羨ましい感情が生まれてしまうのは僕が年を取ったからだろうか。法律の改正でもう成人していると言われても心はそれを実感していないけれども、体はもうそれを正確に感じ取っている。最近、なんだか朝が高校時代よりもつらくなってきた。
まあ、なににせよ公園から見える建物にどんどん明かりが灯っていく景色は、なんだか街全体が活気を帯びていくようで、僕は少しだけ元気もらえていた。朝から晩まで勉強づくしで、趣味やアルバイトなんてできもせずに机に向かうだけの代わり映えの無い高校生活が終わり、明後日からはいよいよ大学生活が始まる高校生活と大学生活の橋渡し的な春休み最終日の前日。三年間を一緒の教室で過ごしてきたのにこれまで修学旅行以外で夜を越したこともなかった友人たちともカラオケやボウリング、映画館にゲームセンターなんて等身大の高校生らしい遊びを充分に楽しみ尽くし、もう高校までの生活で思い残すことは無く、もう目の前まで、手を伸ばせばすぐにでもつかみ取れるところまで近づいている、ぼんやりとうわさ話やフィクションの世界でしか知らない自由な大学生活への憧れを胸に抱いていた。
「ふぅ」
何をしたわけでもないけれど、口笛を吹くように小さく丸めた口から空気が外に流れていく。自分の中にある汚れた二酸化炭素が外気に混ざり、変わって春の夜に程よく冷やされた酸素が鼻を伝って体の内側に入り込んでくる。潮の香りに混ざって、ほんの少しだけ桜の匂いがした気がした。
家から歩いて五分もかからないくらいの与国公園。公園自体が海岸線に沿うような場所に位置しているので、空気には少しだけ潮の香りが混じっている。僕が座っているベンチからは、視界の端に海が見えるくらいだ。ただ、海に面しているからと言って、綺麗な砂浜があるわけでは無い。それどころか、漁港なので海水浴も満足にできるわけでは無かった。良いところと言えば、海産物が少し安いくらいだろうか。
これから夜が深まるにつれて、温度の関係から海から陸に向かって吹く風が厳しくなる頃合いなので、人はまばらだった。既に帰宅を促す五時のチャイムが鳴ってから、かなり時間がたっているので当然の事だ。むしろ、そのチャイムを忠実に守っている人が多い事は良い事である。
まあ、出歩いている僕が言っても皮肉にしか聞こえない。
与国町は『与国人魚伝説』にあやかって、五時のチャイムにウェーバー作曲の『人魚の歌』を採用しているので、町民なら皆が口ずさめるくらいには耳に馴染んでいるはずだ。ゆったりとした始まりから、テンポがあがり最後は静かに沈んでいく音の流れは、童話の人魚姫の様で美しいとすら思える。
この伝説というのは、簡単に言えばアンデルセン作の『人魚姫』と日本に伝えられている『八尾比丘尼伝説』と上手く辻褄を合わせたような話になっている。
この話を考えた人は、それなりに文才があるに違いない。
この時間帯ならすぐに冷えるだろうと、ホットコーヒーにした僕の判断は間違っていなかった。しいて言うなら、眼鏡が曇ることだけが難点だ。コンビニの黒いカップに入ったコーヒーはもくもくと湯気を立てて、青いベンチの背もたれの半分も行かないぐらいのところで空気に溶けて消えていく。今、僕が見ているこの景色を美しいと思う人は多いはずだ。
海からの風が草木を揺らす音だけが聞こえるので、コーヒーを飲みながらゆっくりするにはかなりいい状況である。もっとうまく特徴を生かせば観光客も増えそうなものだが、町が賑わうことと、公園でゆっくりできる時間を天秤にかければ、自分勝手ながら、後者が若干だが勝っているからこのままでもいいと思う。
僕は、何か用事があって公園に来ているわけでは無かった。
ショルダーバッグに入っているのは、携帯電話と財布くらいである。読書やランニングなどの目的を持って公園にくるのも良いと思うが、何も考えずに公園にいるのもそれと同じくらいにいい事だと思う。一人でゆっくりする時間を、現代人はもっと大事にするべきだと偉い人が言っていたおぼえがある。
「あ、ママ~流れ星~」
「あら、ホントね」
親子の温かな会話が聞こえてきた。さっと上を向くと、星が一つ真っ暗な空に消えていった。咲き誇る桜の枝葉をすり抜ける流れ星の美しさを表現できるような言葉は、僕の中にある辞書には載っていなかった。それこそ、国語の教科書に載るくらいの詩人でもない限りは言い表せないだろう。
そういえば流星群が見えるかもと、朝のニュースで言っていた気がする。
何座の流星群かは忘れてしまったけど、流星群が何座なのか気にしている人なんて、気象予報士や天文学者ぐらいしかいない。レオナルドダヴィンチの代表作、そのタイトルが『モナリザ』じゃなくても、あの絵はしっかりと後世にも評価されていたはずだ。大事なのは名前とかブランドでは無くて、中身や本質って事だと思う。
「わぁ~きれ~い」
また、星が降る。一つ二つと、夜空を彩る。
「ママ~見て~いっぱい」
「そうねえ。何か願い事をしないの?」
母親と手を繋いでいた女の子は、人形が欲しいらしかった。まだ完璧には回りきらない短い舌を懸命に使って、誰でも一度は目にしたことがあるほど有名な国民的アニメの主人公の人形をお願いしている。その姿はとても健気で、流れ星の話を疑ってはいないのだろう。あの子の願いが叶うくらいに優しい世界であれば良いなあと思う。小さな女の子の笑顔が増えるのは間違いなくいい事だ。
「願い事かぁ」
『流れ星が消える前に三回願い事を唱えると願いが叶うんだよ!』
――と教えてくれたのは誰だっただろうか。もう、その時のことを思い出せない。
昔から伝えられてきた噂だ。キリスト教由来の話だとは聞いた事があるけれど、そもそも日本人の大半が無信仰なので、どんな宗教であろうと面白そうな部分だけ取り入れればいいという文化があって、それらがある意味の日本らしさを生んでいるという。僕は今まで流れ星に願いを言い切ったことは無い。そもそも、あんまり神様とか占いとかのスピリチュアルな事には関心が無い。あくまで娯楽の一種である。
しかし、それは今の自分の話であり、昔は教わった通りに流れ星を見つければ言い切れないとしても願い事をしたし、サンタクロースにプレゼントのリクエストをする手紙も書いた記憶がある。大人になればなるほど、そういった気持ちが冷めていくのはどうしてだろう。叶わないとわかっているからなのだろうか。それとも、単純に恥ずかしいからなのか。
ただ、今日くらいは童心に帰ってお願い事を唱えても良いんじゃないだろうか。
このレベルの流星群なんて、めったに見れないんだから。
『
結局、恥ずかしくなってしまって、一度だけ小さくつぶやいてそこで言うのはやめてしまった。その言葉は、本当なら何の意味もなくただ消費されるだけでこの広い世界、狭いと思っていた街のなかを変えることもない小さな願いだった。
しかし、その一言がこれから始まる僕の一年を大きく変えることになった。
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