私はやたら「雅」という文字に縁がある。


 妻は雅子、私は雅人。長兄は雅春、次兄は雅之である。そして娘と今良い感じの、北沢くんの名前も雅樹だ。


 私は今「雅」という名のうなぎ料理店にて、母、私、志帆、それから長兄の四人で昼食を囲んでいる。


 兄と一緒に食事をするなんて何十年ぶりだろうか。

 母と兄はよくこの店に来るそうだが、私と志帆も一緒に、と言い出したのは兄だ。家を出て以降の長兄から、冠婚葬祭以外の連絡を受けたことなど一度もなかったので、どうしても身構えてしまう。


 父の代では、私を跡取りにするという遺言通り、不均分相続になり私と母でほぼ半分ずつを相続した。

 長兄は勘当されたままで当時は何も口出しをしなかったが、母の代になれば再び長兄にも相続権が発生する。母も父の選択を了承して相続を終えているが、何より母は長兄をとても可愛がっている。


 どうにも俳優として成功しているようには思えない長兄と、将来揉めることになるなら気が重い。


「パパそれもう食べないの?」

 私の食があまり進まないのを見て、志帆が尋ねてきた。

 彼女は既に私のお重の、手つかずの二枚目のウナギに狙いを定めている。


「あぁ、こっちは箸をつけていないから。食べたいならあげよう」

 志帆は「やった!」と大喜びで、ウナギ一枚とご飯を半分ほど持っていったが、昔はこの逆だった。志帆は幼い頃からとにかく好き嫌いが多く、無理に食べさせようとすれば怪獣のように暴れた。志帆が苦手なものは、最初に私の皿に移すのが慣例となっていたのだ。


「志帆ちゃんは若いのに、本当に和食が好きなんだねぇ」

 実はこういった店よりも、ファストフードの方が好きな母が言う。


 志帆は今も偏食には変わりないが、塩分が多く高価な和食を好むところは確かに渋い。雅子といい、どうしてこう普通の好みなのは私だけなのか。

 私は好き嫌いは特になく、若い頃はファストフードを好んだし、年をとれば和食が好きになってきた。どこまでも標準的な日本人である。


「おばあちゃんはマクドーマンドの方がよかったよね」

「そ、そんなことはないよ志帆ちゃん。ねぇ、雅春」


 母は何故か気恥ずかしそうにして、誤魔化すように隣に座る兄の方を向く。

 席順は兄と私、母と志帆が向かい合わせだが、志帆は「劇団夏季」の件を根に持っているのか、完全に兄をスルーしていた。


「雅春がマクドーマンドのCMに出たっていうんで、一・二回どんなものか覗いてみただけだよ」

 週一・二回は通っている、の間違いだ。


 話を振られた兄の目が泳ぎ出す。

 母は純粋に信じているのだろうが、これは下駄をはかせて言ったに違いない。


「いやぁ~、まあ、昔の話だよ」

「すぐに放送が終わっちゃったんだよねぇ、私も見たかったよ」

「……伯父さん、それいつのCM? マクドのCMなら全部ネットに上がってるよ」

「いやあ~、いつだったかなあ。もう十年以上前だし……」

「朝ドラ?ってやつにも出たんだよねぇ。私毎朝見てたけど、どこに雅春がいるのかわからず仕舞いだったのよ」

「ヒロインの同級生の父親役で、授業参観のシーンだよ」

「それエキストラじゃん」

「あ、あと母さんの好きな刑事ドラマにも出ただろ?」

「それも雅春がどこにいるのかわからなかったんだよ……お正月スペシャルの、客船が乗っ取られた話だよねぇ。犯人の役かと思ってよく見てたんだけど、雅春じゃなかったねぇ」

「いや、俺は人質の役……」

「エキストラじゃん! しかも大人数現場じゃん。おばあちゃん、それじゃ見つからないって」

「志帆ちゃん、エキストラっていうのはそんなにダメなのかい? オリーブオイルでもエキストラが付くと美味しいじゃないの」


 三人の微妙に噛み合っていない会話を聞きながら、私は静かにお吸い物を頂く。こんな平和な話をしているなら、骨肉の争い(の前触れ)を心配したのは取り越し苦労だったか。


「兄さんと話すの久しぶりだよね。今も下北に住んでるの?」


 兄がやはり俳優として成功していないらしい話を、これ以上聞くのも切ない。話題を変えようと助け船を出した。


 あからさまに助かったという顔で「ああ。まあな」と微笑んだ兄だが、志帆の追求は続く。劇団夏季の恨みは恐ろしい。


「伯父さん、一回私が会いに行った豊多劇場ってさ……自分の劇場だって言ってたけど、後で調べたら全然違う人のじゃん」

「いやっ、それはだな……あの時は俺の劇団が借りて公演してたから、そういう意味だよ」

「あと劇団の名前って伯父さんが考えたんだよね? 劇団ルサンチマンって……」


 ルサンチマン……。

 見栄を張ってしまった兄にも非があるが、流石にそろそろ私が悲しくなってきた。


「そういえば、志帆の恋人が下北に住んでるんだよ」

「ちょっ、パパやめて余計なこと言わないで」

「志帆に彼氏⁉ 本当か!」

「なんか伯父さんに驚かれるとすっごい腹立つ……」

「雅樹くん、いい男だよねぇ~」

 母がのほほんと話に入ってくる。実感のこもった言い方だなぁ。


「志帆、せっかくだから彼氏とうちの公演見に来ないか」

「は? 何がせっかくなの」

 兄が調子に乗り始めた。

 そういえば「せっかくだから」と私もよく言ってしまう。その度志帆に「何がせっかくなの」と突っ込まれるので思い出した。やはり兄弟なんだな。


「観劇デートなんて素敵だろ?」

 調子を取り戻した兄は、左目でウインクしながら言う。還暦近い男のウインクは辛いものがある。


 もちろん志帆にはあっさり断られていたが、その後兄は、母に良いところを見せたかったのか「ここは俺が奢るよ」と言い出した。

 そうだ、兄はそういう性格だった。いきなり食事に誘うなんてと、少し不安に思って申し訳なく思った。



 志帆と母には先に店を出てもらい、会計で言われたことは一生、私たち兄弟だけの秘密である。


「このカードはご利用になれないようです……」

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