ニート娘、歌う
「志帆、そろそろ出番だぞ」
「はーい。これまだ食べるから置いといてね」
会長、小野田社長各位トップの挨拶と、副社長を代表した真野さんの長い長~いスピーチが終わり、いよいよ志帆の出番だ。
主目的が果たせて機嫌が直ったのか、ホタテを頬張っていた志帆は皿を置くと、すんなりとステージ脇に控えている中村くんの元へ向かっていった。入れ替わりに、カメラを首から下げた北沢くんが私の隣にやってくる。
「北沢くん、さっきはごめんね。娘は君が美男子過ぎて緊張してるだけなんだよ」
「そんなことは……知らない人ばかりの環境だと、話しづらいなって思うこともありますよ」
北沢くんは笑顔のまま優しくそう言った。本人に聞かせたい。
志帆がステージに上がり、司会者の女性に紹介されている。皆の視線が段々と集まり、北沢くんもステージの方に目を向けて言った。
「出来たら社内報に載せたかったのですが、志帆さんは写真がお嫌いなようなので……僕はここで聴いていますね」
やはり彼は好青年過ぎる。後で志帆にちゃんと話をさせよう。
「この度は創立九十周年、おめでとうございます。お祝いの歌を一曲、歌わせて頂きます。これは『そのままのあなたでいてほしい』という気持ちを表した、結婚式などでよく聞く洋楽だと思います。帝国製鉄がこれからも変わらず、日本一の製鉄会社として発展していくことを願って――」
志帆が歌い出すと、会場全体の空気が変わったことがわかる。
テラスに出ていた人たちも、志帆の歌声を聴いて次々と戻ってきた。
北沢くんたちの前であれだけ狼狽えていた志帆は、姿勢良くステージの真ん中に立ち、堂々と歌っている。
一般的に同世代と話すことより、これだけの人数の前で歌う方が緊張するものだと思うが……実に不思議な子だ。
志帆は普段話している声は低めだが、その歌声はいつも高くて若々しく、まるで名門合唱団の少年の歌声を聴いているようだ。特に高音など、どこから声が出ているのかわからない。
彼女はいくつになっても父親とのカラオケに付き合ってくれるような子だが、広い会場に響き渡る、我が娘の歌声を聴けるのはまた格別だ。
私は思わず涙ぐんでいた。さり気無く隣を窺うと、北沢くんも大きな目を潤ませている――ように見える。
これは、もしかすると、もしかしたら……?
志帆もいつかは嫁に行き、私は世の多くの父親がそうであるようにハンカチをびしょびしょにして、いつもドライな雅子も少し涙ぐんで私の背中を摩ったりなんかして――
そんなありがちな幻想に浸っているうち、気付けば会場は割れんばかりの拍手に包まれていた。
「志帆、おかえり。本当に上手だったなあ……パパ少し泣いちゃったよ」
「でしょ? 気に入ってもらえて良かったよ」
志帆は歌に関してだけは、自分を卑下しない。この流れで彼女の機嫌が良いうちに、北沢くんと話をさせてはどうだろう。
ゆくゆくは志帆とバージンロードを歩きながら、今日のこの日がきっかけだったなぁなんて想いを馳せたり――
「北沢くんも気に入ったみたいだよ」
「素晴らしかったです。歌、お仕事でされていたんでしょうか?」
「あ、ありがとうございます、若い頃少しだけ……」
北沢くん、ナイスな褒め言葉だ! よしよしその調子。お見合いのぎこちない会話のようで微笑ましい。
「僕は歌うのって、すごく苦手なので。上手な方って尊敬します」
「嬉しいです……」
「志帆さんは僕が今まで実際に聴いた中で、間違いなく一番ですよ」
北沢くん、結構グイグイ来てくれるじゃないの。これは、本当にひょっとするとひょっとするのでは?
何だか私の方がテンションが上がってきてしまった。
「良かったなぁ志帆、せっかくだから連絡先とか交換したら?」
「ちょっ……パパ、本当にやめて。何がせっかくなの」
照れくさそうにしながらも、どこか嬉し気な顔をしていた志帆から急に表情が消える。しまった……。
「いや、せっかく北沢くんは志帆と年が近いし……」
「近くないし。嫌がってるじゃん、ご迷惑だからやめて」
「いえ、僕は構いませんよ」
「……嫌ですよね、すみません。私あっちにあるホタテ取ってくるね」
いくつホタテを食べる気だ。途中まで良い雰囲気で話していたのに、志帆はまた食べ物のある方へ逃げて行ってしまった。
北沢くんと顔を見合わせてしまう。私は恐らく得意の愛想笑いを浮かべていることだろう。北沢くんも困ったように笑っている。
「なんかごめんね……娘は恥ずかしがりで」
「いいえ、志帆さんは僕を気遣って下さっただけだと思います」
北沢くんは自分の名刺を取り出すと、そこに何か書き込んで私に差し出した。
「差し支えなければですが……常務から、志帆さんに渡して頂けますか」
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