魔の副社長

「渡貫くんちょっと。ちょっと来て下さい」


 午前の会議を終え、常務室へ戻ろうとしたところだった。

 突き当りにある副社長室の扉が隙間程度に開き、中から真野副社長が手招きをしている。


 真野副社長が秘書を通さず、こういう風に私を呼ぶ時は、大抵ろくな話ではない。


「失礼します」


 嫌な予感しかしなかったが、真野副社長は単に上役であるだけでなく、出身大学の先輩でもある。一体卒業から何十年経っているのだろうかと個人的には思うが、大人しく従うよりない。


「まあ座りなさい」


 頭を下げ言われた通りにするが、なかなか次の一言は聞こえてこない。こうして敢えて重々しい空気を醸し出している時ほど、業務に何ら関係ない話が飛び出してくるから困ったものだ。

 真野副社長は腕組みをしたまま、来客用のソファーに座った私の周りをぐるぐると歩き回っていたが、やがて口を開いた。


「……社長は最近、随分と鈴木くんを可愛がっていると思わないか」

 やっぱりそういう話か。私は心の中で溜息を吐きながら「どうでしょうか」と曖昧な返事をする。


 現在我が社には副社長が五名いて、真野さんを含む四名は東大出身だ。最年少で副社長に昇進した鈴木さんだけが京大出身だが、社長の小野田さんも京大出身である。

 真野さんは、小野田社長が後輩だというだけで鈴木さんを次期社長に推すのではないかと、つまりそういうことを心配しているのだ。


「いやいや、絶対に可愛がっている。最近二人で銀龍に入り浸りだ」

「銀龍」とは赤坂見附にある、小野田社長御用達の高級料亭だ。


 私も何度か訪れたが、志帆が喜びそうな味だった。いつか彼女が就職したらお祝いに連れて行こうかと思っているが、それはさておき――

 真野さんの顔が近い。


「渡貫くんはどう思う」

「いえ、私には何とも……」


 真野さんは興奮してくると距離を詰めがちだ。ときに吐息が頬に当たるほど顔を近付けてきたりする。


 志帆が見たら喜ぶかもしれない。つい最近も、中年男性ふたりが頬を赤らめ見つめ合う絵を描いていたから――いや、私と真野さんではダメか。とにかく私としては、密室の中で真野さんにじっと目を見つめられるのはご勘弁願いたい。


 無礼にならない程度にさり気なく顔を後退させるが、真野さんも一緒に動いてどんどん顔を近付けてくる。


「そこでだ、渡貫くんに折り入って頼みがあるんだがね」

 出た。我が社の常務は私と亀山常務の二名だが、真野さんの後輩なのは私だけだ。結果、業務となんら関係ない「折り入った頼み」は全て私に押し付けられる。

 私が役員の中では最年少であるため、また、つい笑顔で流してしまう性格というのもあるかもしれない。


「ここはひとつ私のために、鈴木くんにそれとなく探りを入れてくれないか。鈴木くんも君になら警戒しないだろう」


 つまりスパイをしろということか。確かに私は周りから出世に興味が無いと思われており、実際その通りかもしれない。昇進は早い方だったが、それは我が社の人事評価が昔ながらの減点方式で、コツコツ真面目にやるタイプである私に向いていたからだろう。


「鈴木副社長も、そのようなことは他人に口外しないのでは」

「いや、君にならポロっと話すかもしれない。君はいつもニコニコしててこう、人を安心させるからねえ」

 真野さんに言われてもあまり嬉しくないし、そろそろ顔を離してほしい。


「ねえ、頼むよ。こんなこと君にしか頼めないんだ」

 いつにも増してグッと顔を近付けられて、そろそろ鼻先同士が触れ合いそうだ。私はとにかく離れてほしい一心で「ぜ、善処します……」と言う他なかった。


 真野さんは学閥にこだわりすぎていて、だからこそ私にも言うことを聞かせようとするし、小野田社長と鈴木さんが先輩後輩なのが不安なのだろう。


 私は学閥にあまり関心がないために、父親としての先輩だった鈴木さんの方に、人として好感を持っている。

 鈴木さんは遅くにできた息子の伸児くんをとても可愛がっていて、私と上司部下であるだけでなく、父親としても身近な先輩になってくれた。鈴木さんを騙すようなことはしたくないし、するつもりもない。かと言って、真野さんにはっきり断りを入れるのも、今度は鼻先が触れるまで顔を近付けられそうで怖い。どうしたものか。


 常務室に戻った私は、先程の真野さんのアップを思い出して気分が悪くなった。


「渡貫常務、広報部の北沢です」

 そこに救いの一声。ノックの後に続いた耳心地の良い声に、私は少し気持ちが軽くなる。


 北沢くん。私は君みたいな立派な若者を見て娘をなんとかしなくてはと気持ちが焦ったけど、結局娘と話したことは「今好きなAIアプリについて」くらいだ。娘は架空のキャラクターにおっさんみたいに鼻息を荒げていて本当に心配だ。あと真野さんに今度はどれくらい顔を近付けられるのかも心配だ。おっさん同士ではセクハラとも言えないし――

 こんな情けない愚痴を北沢くんに言えるはずもなく、呑み込んでから努めて冷静に返事をする。


「どうぞ、入って下さい」

「失礼します。今月の広告掲載誌をお持ちしま――」


 北沢くんは言いかけて、私を見ると驚いた顔をして駆け寄ってくる。真剣な表情で「大丈夫ですか?」と問われた。私はそんなに青い顔をしているのだろうか。

 確かに、真野さんの鼻息が頬に当たったのを思い出すと、昼食を抜きたい程度には気分が悪くなるが。


「いやいや、大丈夫だよ。そんなにひどい顔してたかな」

「ええ、少し具合が悪そうに見えます」


 北沢くんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。何故だろう、北沢くんの顔は近付いてきても不快ではない。美男子だからか? 私にはそっちの趣味は無いはずだが。


 今度こそ、志帆が見たら喜びそうだな。


「……北沢くん、ありがとう。元気になったよ」

「えっ? 僕は何もしていないですよ」

「いやこっちの話なんだ、気にしないで。ところで今夜、空いてたらお礼にご馳走するけどどうかな」


 昨今では部下を食事に誘うのも、人によってはパワハラに感じるのではと気が引けてしまう。しかし今夜はこの立派な若者と呑んでみたいと、そんなに酒に強くない私が珍しく思った。

 無理強いにならないよう、渡貫地蔵らしい笑顔を浮かべてみる。北沢くんもつられて「何もしてないですって」と笑った。


「でも、渡貫常務が誘って下さるなんて珍しいですね。お言葉に甘えさせていただきます」

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