直接対決(物理)
私と志帆と北沢くんは、新宿区のホテルラウンジにて円卓を囲んでいた。
吹き抜けから大型のシャンデリアが吊り下げられている。広い庭園に面した全面窓から、陽光が燦々と入ってきてはそれを照らすのでとにかく明るい。
ここに父と娘、その交際相手が集まるとしたら、きっと結婚式の日取りなんかを相談したりするのだろう。
そんな雰囲気とは裏腹に志帆の表情は暗く、私は困惑していて、北沢くんはどこか不機嫌そうだ。
「僕、来月で退社するつもりなんです」
とりあえず注文したものがテーブルに揃ってから、最初に口を開いたのは北沢くんだった。
「そ、そうなの……? 何でまた」
「中村と起業するんですよ」
「……怪しいビジネスやるんだって。やめろって言ったのに」
「怪しいビジネスじゃない。酸素缶のサブスクは、今世の中に求められている画期的なビジネスなんですよ」
「酸素……」
「中村が言ってくれたんです。お前は顔も良くて学歴もあるから、ただ従業員として使われる一生じゃ勿体ないって」
だとしても「酸素缶のサブスク」は聞くからに成功しそうには思えないが、その点は私が口出しすることではないだろう。
彼が志帆と結婚するなら話は別だが、まだそんな段階では――それどころか二人の様子を見るに、これは別れ話が始まりそうだ。
「まあ、詳しい内容は関係者でない方には教えられませんが――」
「怪しいビジネスだからでしょ」
「高校しか出ていない志帆さんに何がわかるんでしょう?」
「……北沢くん、それは言い過ぎだ。志帆も怪しいと決めつけるのはやめなさい」
「言っときますけど、僕はもう辞める人間なんで。もう貴方に媚びる必要なんかないんですよ、渡貫常務」
本当に私に媚びていたのか。
「北沢くん。今日は志帆との交際について、私に聞いてほしいというから来たんだが」
「ああ、そうでしたね。別にそのままフェードアウトしても良かったんですけど、今まで我慢した分、僕も言ってやらないと気が済まないと思ったので」
北沢くんは腕組みをして、向かいに座る私と志帆を見据える。
目はいつも通り笑んだ形になっているが、普段の爽やかな笑顔からは程遠く見えた。
「もう限界です……この人を本当に好きになる男が居るなら見てみたいですよ。ああ、志帆さんから何も金品はもらっていませんから安心して下さい」
志帆は財布の紐が堅い方なので、それは何となくわかるが。
「随分急だね……仲良くしているものだと思ってたよ」
「いいえ。そういえば志帆さんには、出かけるたびにカラオケに付き合わされましたけど、毎回苦痛でたまらない時間でしたね」
「君、パーティーの時娘の歌を聴いて泣いてたじゃないか……」
「歌と、女性として見た時とは別ですよ」
北沢くんは鼻で嗤う。美男子であるだけに、冷たい表情も割り増しで冷酷そうに見える。
「確かに歌は良かった。でも歌の才能と、女性としての魅力は関係ないですよね。むしろ志帆さんの場合、ギャップがありすぎて余計にたちが悪い。こんな人だなんて思ってもみませんでした」
それはこちらの台詞だ。今まで彼を好青年としか思っていなかったので、その豹変ぶりに驚く。
北沢くんはいつも通りの良い声で、溜め息交じりに「常務、はっきり言わないと分かりませんか」といい、私に顔を近付けてきた。
「決まってるでしょ、逆玉狙ったんですよ。他にお嬢さんと付き合う理由がありますか?」
私ははっとして隣にいる志帆を見た。
俯いていて表情は伺い知れないが、交際相手にこんなことを言われて、傷つかないはずがない。
「僕は女性の容姿にはあまりこだわりがないので、お嬢さんでも別にいけるかなと思ったんですけどね、彼女はそれ以前の問題でした」
「……娘と別れたいというなら、もうわかった。そんなに酷い言い方をしなくてもいいだろう」
「いいえわかっていませんね。大体この僕が、こんな豚と本気で交際すると思ったんですか?お父さん」
私は弾かれたように顔を上げて「ぶ、豚……?」と間抜けに復唱した。
「ええ。冗談じゃないですよ、こんな豚」
パパの方が偉いんだから「こんな豚冗談じゃねえよ」なんて言えないでしょ――
志帆の声が何度も頭に木霊した。
「パパ~!」
幼児の頃の、志帆の姿がフラッシュバックする。
年齢にしてはかなり上手な、しかもかなり美化された私の似顔絵を持ってきた志帆は、嬉しそうに言う。
「『さぷらいず』だからこれないしょね!」
次の日は私の誕生日だった。志帆は私に似顔絵を渡しながら「おどろいた? ねえおどろいた?」と聞いてくる。私が頷くと、まだ生え変わりきっていない歯を見せて笑い、ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。
幸せだった。この子のためなら何でもしてあげたいと思った。
私は今まで、どんなに腹が立っても人に手をあげたことはない。頭の片隅で、よせ、社会的に死ぬぞと警告が響くが、そんなものは振り切った。
志帆は、世間からニートと言われる存在であっても、体重が八十八キロあっても、病気や障害を抱えていても――それでも私の大切な娘だ。
立ち上がろうとした私は、何かにぶつかって席に押し戻された。
見上げると志帆が先に立ち上がったようで、向かいに座る北沢くんの前へと向かっていく。
北沢くんは志帆を見上げながら、またしても鼻で嗤う。志帆は拳を震わせながら、北沢くんの胸倉を掴んで立ち上がらせた。
「へぇ、暴力に訴えるんですか。貴女は失うものが何もない『無敵の人』ですもんね? これだから低学歴は――」
北沢くんは余裕に笑んだまま、敢えてよく通る声で志帆を煽った。一気に周囲の客や従業員からの視線が集まる。
私もつい先ほどまで、彼を一発殴ってやらなければ気が済まないと思っていたのに、急に我に返った。
「何怒ってるんですか? 志帆さん。僕が言ったことは全部本当のことじゃないですか。まだわからないなら、頭の悪い貴女にも分かるように説明して差し上げましょうか? 貴女は誰の役にも立たず、誰からも必要とされていない社会のゴミなんですよ」
志帆は黙ったまま、北沢くんの胸倉から手を離した。
「本当のことを言われて腹が立つんでしょう? 殴りたければどうぞ?」
北沢くんは尚も志帆を煽る。志帆のたくましい腕で殴られたら、彼はひとたまりもないだろう。大怪我をさせてしまうかもしれない。
「志帆、ダメだ。やめなさい」
私は身を乗り出して止めようとしたが、時すでに遅し。志帆の両腕が、勢いよく北沢くんへと伸びていった――
「あっ……だめ……らめぇ……♡」
北沢くんは頬を染め、ビクリと身体を震わせた。
どこかで聞いたことのあるような、見たことのあるような反応だ。
志帆は私の心配をよそに彼を殴らなかった。
代わりに、ワイシャツの上から彼の乳首であろう位置を、両手でしっかりと摘まんで捏ねていた。
私たちが通された席は丁度、ラウンジの中心に位置する丸テーブルで、ラウンジの入り口だけでなく、ホテル自体の正面玄関からも見通せる位置にある。ラウンジとロビーの間はほとんど仕切りがなく、数本の柱で隔てられているのみだ。
北沢くんが志帆を煽っている間に、ほぼ満席のラウンジからだけでなく、ロビーに居た人々の注意までもがこちらに向くことになった。比喩でなく周り全ての視線が中心にいる私たち――というよりも、喘いでしまった北沢くんに注がれている。
これは……。殴られた方がましだっただろう。
「……ぇ? あ…………」
頬を赤らめていたのから一転、顔面蒼白になった北沢くんはふらふらと後退りする。
彼は元々女性からの視線を集めやすかったが、裏目に出てしまったか。誰もが呆気に取られているが、纏わりついた視線は剥がれない。
「ちょっと待て北沢!」
ふらついているが、今にも走って逃げ出しそうな雰囲気だった北沢くんが、志帆の一声にピタリと制止する。
「パパに奢らせる気か。自分の分は置いていけ」
父さん。九代目は案外大丈夫かもしれない。金銭感覚だけは、しっかりしているみたいだから。
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