蕎麦は二玉まで

「違う、そうじゃなくて――うん」


 自室に戻ろうとしていた私は、志帆の部屋の前で足を止めた。


 ドアから志帆の声だけが漏れ聞こえてくるので、電話で誰かと話しているのだろう。立ち聞きなんて良くないとは思ったが、志帆の部屋から(ナオキ以外と)話す声がするのは初めてのことだ。相手はきっと北沢くんだろうから、父親としてはどうしても気になってしまう。


 志帆が北沢くんと交際を始めて、そろそろひと月になる。


 先月の第三土曜日、無事に初デートを終えた志帆は夜遅く帰ってくるなり「イケメンと大さん橋デートできるなんて、生きてて良かった」と言い残し、すぐに自室に入り寝てしまった。

 そして翌朝――ではなく昼過ぎに、何をどうしたらそんな状態になるのか、髪が全て逆立った姿で出てきて「もう思い残すことなさすぎて目覚めないんじゃないかと思った」と呟いた。


 とどのつまり、予行演習の甲斐あってデートは大成功だったらしい。それから毎週末会っているようだ。


「ダメだって! もっとゆっくりね――だからもっと優しくって言ってんじゃん」


 しかし何やら、志帆の声は苛立っているようにも聞こえる。余計に気になってドアに耳を近付けた。まあ若い男女だから、時には喧嘩もするだろうが……


「謝らなくてもいいよ。あっ、でもやっぱり今の可愛かったからもっかい言って」


 何を話しているのかはさっぱりだが、とりあえずいつもの志帆だ。ホッとしたのもつかの間、志帆の「また明日ね」という声がしてから、急にドアが開いた。慌てて顔を離したが立ち去るタイミングを逃してしまう。


「パパ何やってんの?」

「いや、その……聞くつもりはなかったんだ」

「何が? てかパパさ、冷蔵庫にまだお蕎麦あったっけ?」

 どうやら私の立ち聞きを察知したのではなく、夜食を欲しただけらしい。

「あったと思うけど、二玉までだよ」

「えー、うどんじゃなくて蕎麦だから四玉でいいじゃん」

「ダメ。蕎麦も二玉まで」

「えぇ……じゃあ、ちょっとコンビニまで行って買ってくるから!それならいいでしょ? 運動した後だし。何か足りないものない?お使いもしてくるから!」

「うーん……」


 我が家は横浜の観光名所から徒歩圏内の割に、近くにコンビニが無い。最も近いコンビニでも片道700メートル以上はあるので、万年運動不足の志帆には良い散歩になるか。


「でも珍しいじゃないか、自分からお使いに行くって言うなんて」

「そりゃあ……ねえ?」

「そうか、志帆もいよいよダイエットする気になったか?」

「ううん、どうしても四玉食べたいから」


 そうだと思った。


「まあ、歩いた方が体には良いと思うけど……もう遅いけど大丈夫か?」

「スリとかひったくりとか?」

「それもあるけど、夜だし女性の一人歩きは危ないだろう」

「ないない! パパ、そっちは絶対ないから!」


 志帆は笑いながら私の肩をバシバシ叩く。それに合わせて、さほど逞しくない私の身体は揺れた。重量のある平手打ちだなぁ。


「泥棒には気を付けるようにしてるけど、痴漢とかは私に限っては絶対ないね。今まで満員電車乗ってても一回もないよ」

「えっ……そうなのか」


 満員電車と聞いておぼろげに、自分の高校時代のことを思い出す。


 当時は勘違いだと思い込もうとしていたが、満員電車で今の私くらいの年齢の男性に、触れられたことは一度や二度ではなかった。


 時代が変わり、痴漢被害のことなどがニュースで取り上げられるようになるにつれ、男子学生が被害に遭うこともあるのだと知った。男の私でああなら女性はなんと大変なのだろうかと思い、志帆の電車通学も心配だったものだ。


 もちろん志帆が被害に遭わなかったのなら、それに越したことはないのだが。


「やっぱり、今から行くのはやめておきなさい。自分にはないだろうって思い込むのは危ないよ。パパも昔――」


 言いかけて途中でやめた私を、志帆は不思議そうに見上げている。娘に危機意識は持っていてほしいが、詳細はあまり思い出したくないので話題を変えることにした。


「それより志帆、北沢くんと何か揉めてたの?」


 志帆は北沢くんの名前を聞くと、四玉の蕎麦も夜の散歩も忘れたように、目を輝かせて早口で語り始めた。


「え、めっちゃ仲良くしてるよ? さっきまでビデオ通話してたんだけど、イケメンはパジャマ着ててもイケメンだよね……顔が良すぎてスクショ止まんないし。可愛いんだこれが」


 そう言う志帆の表情はどう好意的に見ても「ニヤニヤ」である。

 ナオキや架空のキャラクターたちに「うおおスクショ止まんねー!」などと言いながら興奮している志帆をよく見てきたが、現実の交際相手である北沢くんにも同じなのか。


「そうか……北沢くんの声は聞こえなかったから、電話してるのかと思ったよ」

「そりゃあパパ、これだよ」


 志帆はポケットからスマホを取り出して、それに繋がっている、やはり徹底してターコイズカラーのイヤホンを見せた。


「雅樹は顔だけじゃなくて声も良いからさ、これでしっかり聴かなきゃもったいないでしょ」


 相手の声を少しも聞き逃したくないなんて、青春そのものじゃないか。

 何故か鼻の下を伸ばしているのは気になるが、それほど北沢くんのことが好きなのだろう。微笑ましい。


「良かったな志帆、交際が順調ならパパも嬉しいよ」

「うん。雅樹、あんなハイスペック男子のくせしてさ、ドMっぽいところがまた可愛いんだよお」


 志帆はうっとりしながら言った。

 その表情は恋する乙女というより……もはや何も言うまい。

 幸せそうだからヨシとしよう。

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