18年後

「パパ、おはよう! 何キロだった?」

 あれから18年。娘は私の心配した通り……否、それ以上に心配な姿に成長していた。


「おはよう。いつもと変わらず62キロだよ」

「よし、26キロ私の勝ちだ!」


 娘はご機嫌で洗面所を出て行った。私は体重計の上に乗ったままそれを見送る。

 ズンズンと地鳴りのような足音で去っていった彼女に、体重は勝ち負けではないと伝えたい。そして、女性なのだから重い方を勝ちとしないでほしい。


 私、渡貫雅人の一人娘・志帆。32歳になった志帆は、世間でいうところの所謂ニートだ。体重は現在88キロ。


 志帆はリビングで、今度は妻に今日の体重を聞いていた。妻の雅子は中年太りとは無縁で、出会った頃からずっと、160センチ45キロという体型を難なくキープしている。

 私からすると雅子は痩せすぎだし、志帆は太り過ぎだ。娘が母親二人分の体重というのはどうしたことだろう。案の定、志帆は「もうすぐママの二倍になるね」と誇らしげである。


 何故こうなってしまったのか。私は172センチ62キロという、ごく平均的な体型であるのに。


 二人の会話を聞きながら私も着席する。我が家は全員で同じものを食べることが滅多に無く、今朝も朝食のメニューはばらばらだ。


 雅子は自然派にこだわっているためか、彼女の前に並ぶ食事は往々にして見た目が美味そうではない。

 ご飯と汁物があり、豆のような何かが入っているのはわかるが、詳細は見ただけでは判別できず、全体的に茶色い。そして黒ゴマが多用されている。たぶん体には良いのだろう。


 対して志帆の前には白いオムレツ、スモークサーモンとキャビア、いくらに明太子、ご飯と赤出汁の味噌汁。一見朝食ビュッフェのようなラインナップだが、量がおかしい。多すぎるのである。

 ご飯は朝から大きな丼に盛られているし、一体どれほどの塩分量なのか。見た目は美味そうだが、体に悪そうなことこの上ない。


 そんな対照的なメニューを眺めつつ、私はいつも通り、ごく平均的な日本人の朝食である、煮物や紅鮭やら卵焼きやらをご飯と頂く。


「そういえば志帆は何キロだったの」

「今日も88キロ。幸運体重キープ中」


 志帆曰く、8を横に寝かせると∞になるので「縁起の良い幸運体重」なのだそうだ。体重が無限大は良くないだろう。


「BMI34.4ね。35以上になると重症加算になるんだから、超えないようにしなさいよ」

 妻よ、問題はそこではない。


「大丈夫だって、もう病院の世話にはならないから」

「だとしても膝やられるわよ、もうちょっと白米減らしなさい」


 私は「もう」病院の世話にはならないという志帆の言葉を聞くと何も言えなかった。代わりに雅子がもう少し注意してくれることを期待したが、忙しい彼女は既に綺麗に食べ終えた食器を片付け、車の鍵を手に取っている。


「行ってきます」

 産婦人科医である雅子はそれだけ言うと、颯爽と出ていく。何故か年をとらないその姿は未だに、密やかなる私の自慢だ。


 ニートになってしまった娘にどう接していいかわからない私に対して、雅子は実にあっけらかんとしていて不思議である。良くも悪くも、昔からあらゆるものに興味関心が薄い彼女であるので、我ながらよくプロポーズに成功したと思う。だからかどうか、私は未だに雅子に対し、惚れた弱みか強く出られない。


 母親なんだから、もうちょっと娘の生活を指導してくれ……とは言えず、今朝もつい笑顔で手を振ってしまうのだ。


「うん、行ってらっしゃい」

 志帆も「行ってらっしゃ~い」とサーモンを頬張りながら手を振っていたが、私と目が合うと、まだ何も言っていないのに必死に首を横に振った。


「やだよ、ごはんは二合以下は無理だからね⁉」

「志帆、二合は一回に一人で食べる量じゃないんだぞ」

「甘いもの食べないんだからいいじゃん」


 志帆は世間一般の肥満体型の人と違い、甘いものを食べない。他にも揚げ物やファストフードなど、およそ太った人が好むであろう食事をあまり好まないが、とにかく白米や麺類などの炭水化物をよく食べる。「20代の頃に比べて40キロ以上太った」とは本人談。 

 炭水化物ダイエットなどとよく言うが、私は白米がこれほど人を太らせるということを、志帆を見ていて初めて知った。


「何でも食べ過ぎは体に良くない」

「まあまあ。それよりパパ、そろそろ来るんじゃない?」


 時計を見ると、確かにそろそろ迎えが来る時間だった。私は製鉄会社で役員をしており、有難いことに役員車を利用できる。

 常務クラスは専用とはいかず二名で一台なのだが、運良く私とセットになった亀山常務は、千代田区にある本社のすぐ近くに住んでいる。朝はほぼ毎日、横浜に住む私が乗せてもらえるという訳だ。


「今日はどっち? おじいちゃん? 黒澤ちゃん?」

「多分牧さんじゃないかな」

「え~、黒澤ちゃんはいつ来るの」


 運転手も基本的に二名で一台を担当しているが、おそらく今日来るのはベテランの牧さんで、志帆が待ち望んでいる美男子の黒澤くんではない。黒澤くんは志帆よりも若い新人で、修行中の身なのか担当が固定されていないようだ。志帆は黒澤くんの時だけ、外まで出てきて丁寧に見送りをしてくれる。


「わからないな、パパが決めてる訳じゃないからね」

「だよね……黒澤ちゃんの白手袋たまらないのになあ。また見たい」

 妙なフェチズムを匂わせる志帆の発言を、努めて流しつつ鞄を手に取る。


「今から寝るの?」

「うん、原稿やってたし」


 志帆の言う原稿とは、仕事ではなく「同人誌」のためのものである。私は今まで、同人誌とは単に自費出版のことだと把握していたが、現在では「二次創作」と呼ばれる、既存の商業作品のパロディを描いたものが大半を占めるようだ。

 その市場は大きく、商業作家より稼ぐ人もいるそうだが、志帆の同人誌はあまり売れないらしい。

 その他にも志帆は「mixiv」というSNSに漫画やイラストを投稿していて、そちらの評価も振るわないのだとよく落ち込んでいる。


 私にとってはよくわからない世界のことを、志帆はいつも嬉しそうに話す。親に何でも話してくれるだけ良い方かもしれないが、大体いつもBLという(志帆いわくBoys Loveの略であるそうだ)男性同士の恋愛物語であるらしい作品の内容については、なるべくなら聞くことを避けたい。


「じゃあパパ、行ってらっしゃい」

 志帆はひらひらと手を振ってそう言ってから、欠伸交じりに自室へ戻っていった。彼女にとって、先程食べたのは朝食ではなく夜食だ。いつも私たちが仕事に行った後眠り、完全に昼夜逆転の生活を続けている。


 子がニートになった場合、よそのケースでは自室から出られなくなってしまう、または家族に暴力を振るうなど、もっとひどい話を聞く。志帆は自室に籠っている訳でもなく、趣味のイベントや「聖地巡り」なる旅行には、喜んで一人で出かけていったりする。


 たまに私や雅子と言い争うことはあるが、どこの家庭にもある親子喧嘩の範疇であり、暴れたりすることはない。だからと言って、ずっとこのような生活をさせていて良いはずがない。


 分かっている。それは分かっているが、しかし。

 焦らずとも、まだ大丈夫ではないか? 引きこもりにはなっていないし、女の子なのだから結婚という手もある――


 私は今日も、そう自分に言い訳をしながら家を出るのだった。

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