北沢くん

 我が社は規模の割に基本給が安く、私の若い頃などは残業代ありきであった。

 役員になった今でも特別の用事が無い限り、任されている部署がほとんど空になるまで会社にいることが多い。この年になってまで学閥がものを言う会食や酒の席はあまり得意ではないし、業務上の必要最低限に留めたいものだ。


 私と役員車がセットの亀山常務はそういう席が大好きな人で、夕方になると大抵姿が見えない。

 反対に私は大抵会社にいるので、従業員時代「仏の渡貫さん」と呼ばれていたのが変化して、今は影で「渡貫地蔵」と呼ばれているらしい。


 巣鴨の有名なお地蔵様のような響きで、悪い気はしないが。


 仕事を終えた後は、なるべく担当部署を覗いてから退社するようにしている。理由なく役員が訪れると従業員が委縮してしまう場合もあるだろうが、私は「地蔵」なので大丈夫なようだ。


 現在はむしろ残業が推奨されておらず、この時間に人が残っていることはあまりない。ところが広いオフィスの中にあっても、一際目を引く存在が一人だけ残っていた。広報部の北沢雅樹君だ。


「渡貫常務、お疲れ様です」

 出身大学においても私の後輩にあたる彼は、同性から見てもかなりの美男子で、入社面接の時点から印象に残っていた。私に気付くと耳心地の良い声で挨拶し、爽やかな笑顔を浮かべる。


「お疲れ様。これ、総務の?」

「はい。中村に一緒に提出してもらうんです」


 彼のパソコン画面には製鉄所で働く従業員に向けた、新たな福利厚生に関する企画書が表示されていた。

 近頃はどこも人材の確保が難しく、当然我が社も会社の規模に胡坐をかいていられない状況だ。そこで今更ながらにワーク・ライフ・バランスなどと謳って、見せかけだけの福利厚生を増やすよう推進する案が出た。経営陣の中で私は反対の立場だったが、賛成多数で可決されてしまった。


 それが本当に従業員の為になるものなら良いが、景気が冷え込む一方で福利厚生への予算を増やすなど現実的でなく、結局のところ総務部の余計な仕事を増やしているだけだ。


「中村は帰国してからずっとこっちですから、地方のことはよく分からないみたいで」

 総務部の中村くんは帰国子女で、北沢くんの同期だ。部署は違っても二人は仲が良いらしく、よく一緒に居るところを見かける。


「君が手伝ってあげないと終わらないほどなのか……これ、私は反対したんだけどね」

「いえ、手伝ってる訳じゃないんですよ。もう退勤打って、今日の業務も終えているので。僕が勝手に書いているだけなんです」

「そうなの?」

「はい。むしろ中村に、一緒に出してもらうように頼みました」

「……北沢くん、やっぱ総務に行きたかった?」


 彼は美男子だったが故に、広報と営業で取り合いになった逸材だ。

 我が社の広報は企業間取引なので、世間一般のイメージからなる広報部とは少し違う。それでも広報は営業と共に「会社の顔」であり、北沢くんの配属先に関しては多少揉めた。

 本人が総務部を第一希望としていたため、最終的には元が総務の一部であった広報に決まったが、未だ営業部には彼を欲しがる声があるほどだ。


「いいえ、広報の仕事にもやりがいを感じていますよ」

「君はどの部にも適性はあったから、希望の部署で良かったと思うよ。私が人事担当だったら総務に推したんだけど」

「そんなに誉めて頂けて嬉しいです。でも本当に、総務の仕事だからではなくて……」


 北沢くんは少し首を傾げると、大きな目を笑みで細めながら言う。

「僕、すごい田舎で育ったんですよ。それこそ本当に山しか無い限界集落で……だから地方で暮らすことがいかに大変か、身を持って分かるんです」


 意外な感じがした。高学歴で美男子という、天に二物を与えられたような彼が「でも製鉄所のある地域は、僕の出身地と比べたら全然田舎じゃないですけどね」と言ってはにかむ。


「同じ会社で働く人たちに、もっと良い暮らしをしてもらいたいじゃないですか」


 眩しい笑顔だった。


 希望の部署に配属されずとも、不満も漏らさず与えられた仕事をきちんと終えた上で、こんなに素晴らしい心がけを持って、自身の業務外のことにまで時間を割ける若者がいるとは。

「今時の若者は」などという言葉は好きではないが、正直に言って私にも、若者は自らの利益にならないことは避けて通るだろうという先入観があった。これからは、考えを改めることにしよう。


 北沢くん、なんて好青年なのだろうか。

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