仁科先生
「雅子、何やってるの。今日は志帆の精神科の日だからもう出ないと」
「私は行きません」
「えっ、何言ってるんだ」
「必要ないからよ。そんなに志帆を病気にしたいなら、あなた一人で連れて行って」
私より早く病院に駆け付け、この時ばかりは仕事を全てキャンセルし志帆に付き添った妻は、志帆は病気ではないと言い張った。
自殺未遂を起こしたのにそんなわけないだろう。それに自らも医者でありながら「精神科は信用ならない」と、志帆を精神科に診せることにも反対した。
雅子は志帆の入院中、泊まり込んでずっと傍に居たが、志帆に何も聞かず普段通りの馬鹿話で盛り上がっているだけだった。
私は雅子の頑固で変わった考えを持つところも好きだったが、この時ばかりは参ってしまった。
志帆は救急搬送から数日で退院することができたが、私は志帆を再び同じ病院へ連れて行き、精神科を受診させた。
本棟から離れたところにあった精神科のフロアはあまり陽が射しこんでおらず、私の気分的なものもあったのだろうが、暗く重苦しい空気だった。
「渡貫志帆さん――のお父様ですね。担当の仁科です」
精神科の仁科先生は痩身で髪が長めの、まだ若い印象の男性だった。ずっと笑顔だが目が笑っていなくて、失礼ながら少し怖い。
「お父様にお話しするのでいいんですか?」
「結果にショックを受けて、余計に悪化させるのが心配で……」
「そうかな、問診中は元気そうでしたよ? まあ、ご本人の了承があるのでいいですけど」
先生はカルテらしきものを見ながら、とても軽い調子でそう言う。
私は心の片隅で、実は雅子の方が正しくて、志帆は本当に病気ではないのかもしれないとか、病気だとしても軽いものだったりしないかと期待した。
現に自殺未遂を起こしていてそんな筈は無いのだが、藁にも縋る想いだった。
「志帆さんは醜形恐怖症による苦痛から自殺企図に至り、うちに運ばれたものと思われます」
「集計……? うつ病とかではないんでしょうか?」
「ああ、順番に説明しますね」
と、仁科先生はまた目が笑っていない笑顔で言う。
「醜形恐怖症、身体醜形障害ともいいますが、客観的に見て全く問題がないにも関わらず、自分の容姿を醜いと思い込んでしまうようになる疾患です。精神疾患の中でも特に周囲からの理解が得られにくいので、患者本人の苦痛は大変強いもので、うつ病を併発することは多々あります。志帆さんはたぶん双極性障害――躁うつ病の方じゃないかな。どちらかは、一度の診察だけでは確定できません」
若者の自殺が増えていると聞くが、うつ病や精神障害などは、どこか自分や家族には縁遠い話だと思っていた。
いざ、娘がそうであると言われると「そうなんですか……」という間抜けな返事しかできない。
「それから、うちは大人の発達障害も診ているんですが、お嬢さんはASDとADHD両方の傾向が、特にASDの方が強いです。志帆さんの場合、ASDのこだわりがご自身の相貌のことに向いてしまっているのもあるのかな。あぁ、ASDとは自閉症スペクトラム障害のことで、ADHDは注意欠如・多動症のことです。こちらも少なくとも数か月は継続して通院して頂かないと、確定診断はできませんが」
「じ、自閉症……ですか? 娘は子どもの頃、そんな診断を受けたことはないのですが……」
「近年は大人になってからわかる方が多いんですよ。高機能自閉症やアスペルガー症候群だと、知的発達に遅れがないので問題なく生きてこられるケースもありますから」
自殺未遂を起こしたのに、問題なく生きてこれてはいないだろう。
「ああでも志帆さんはIQ83……境界知能なんですね。これも生きづらさの原因かな」
「娘は、知的障害ではないんですよね?」
「はい違いますよ。基準は自治体によって異なりますが、現在はおおむねIQ70以下を知的障害の可能性ありと分類します。知能指数の平均値は85から115ですが、71から84までがボーダーライン、つまり境界知能です」
精神疾患はともかく「自閉症」や「知能」の話が出てくるとは予想していなかった。あまりのことに私が呆然としていると、仁科先生は目の笑っていない笑顔を崩さないまま、薄い冊子を差し出した。
表紙には「知ろう大人の発達障害~理解と支援ハンドブック~」と書かれていて、先生は開いて最初のページの、チェックリストのようなものを指差した。
「志帆さんの十七歳以下の頃と現在において、お父様から見て当てはまる事項はありますか?」
強いこだわり、一般的でない物への愛着、音や光に対する強い拒否反応、同じものばかり食べる、他人の話を遮ったり過度におしゃべりである、同じ話を何度も繰り返す――リストのほとんどが当てはまってしまう。
志帆は幼い頃から少々変わった子だとは思っていたが、それも個性だと、幼い頃から他人に合わせてばかりきた私は、むしろ微笑ましく思っていたのだが……。
「七割、いや八割ほど当てはまります……」
「なるほど。発達障害の方も、本人に自覚が無いまま周囲に敬遠されてしまったり、叱責を受けたりすることが多いですから、躁鬱や強迫性障害に繋がることが多々あるんです。お嬢さんは今まで、大変苦しい思いをされてきたのだと思いますよ」
目が笑っていないので表情は怖いが、仁科先生は優しい声色でそう言った。私は恐る恐る「治るんですか」と尋ねる。
「醜形恐怖症、双極性障害に関しては、投薬治療や認知行動療法が可能です。しかし発達障害の治療に有効とされる薬は、現時点では存在しません」
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