アントシアニン
「ただいま~」
私は機嫌良く帰宅した。真野さんとの件は余計に拗れてしまった気もするが、はっきり断れなかった以前の私に比べれば一歩前進だ。
今晩は珍しく、玄関に雅子の靴がある。キッチンを覗くと、雅子は志帆と一緒に台所にいて、揃って「おかえりなさい」と言われた。
一般標準的な家庭の光景だが、志帆は料理ができないし、雅子は夕飯時にはほとんど家に居ないので、我が家としては珍しい。
「ちょっとママ、小豆入れないでよ。あとゴマもかけないでね」
「それじゃ赤飯じゃなくなるでしょ」
「だから別に赤飯じゃなくていいよ……お刺身に合わないじゃん普通のご飯でいいってば」
「昔は赤飯を一日と十五日に毎月食べて『腎』の働きを高めてたのよ。デトックスになるんだから今日くらい食べなさい」
「えぇ……お祝いだっていうなら私の好物にしてよ」
「ダメ。小豆にはサポニンとかアントシアニンとか、志帆に不足してるものがたくさん入ってるんだから――」
「ねえ、何のお祝いなの?」
カウンターから私が話に混ざると、雅子は嬉しそうにニヤリとして、志帆は少し照れくさそうに――傍らにあった刺身をつまみ食いした。
「雅人さんの部下の子から、デートに誘われたんですって」
「北沢くんから⁈」
「い、いや、からかわれてるだけかもしんないよ? 現地に行ったら『罰ゲームでした~お前なんかとデートなんてする訳ないじゃんまさか本気にしたの?』ってタイプのドッキリかもしれんし……」
志帆は挙動不審になって、また得意の妙に細かい悪い想像を臨場感たっぷりに表現しながら――傍らにあった刺身をまた摘まもうとして、雅子に取り上げられた。
「良かったじゃないか志帆、そりゃあ赤飯だな」
「いや、喜ぶのはまだ早いって……あんなイケメンが私なんか相手にするわけないと思うし、大さん橋の上で『三十過ぎて初デートとか恥ずかしいと思わないのおばさん?』って公開処刑されるかもしれないじゃん?」
「あんなイケメンが下北沢から、わざわざこっちまで来てくれるっていうんでしょう? 北沢くん、可愛い子よね」
「大さん橋かあ。良いなあ、パパの青春だよ」
「私さ、いつもはあそこで這いつくばってフィギュアとかドールの撮影してるんだけど……人と一緒に行ったことないからどうしていいかわかんない。パパよく行ってたの? どうしたらいい?」
志帆は真剣に聞いてくる。天気の良い日にいそいそと、ゴルフバックみたいな鞄を背負って出かけていたのはそういうことか。
志帆の部屋の隅に、1メートル近くの高さはあるナオキとよく似た顔の人形がいて、正直初めて見た時は腰を抜かしそうになった。
志帆曰く体は秋葉原の専門店で購入し、顔は自作したのだそうだ。時々一緒に寝ていることもあって、私としては(どこまでも仕事には結びつかない)娘の才能を、勿体なく思いつつも微笑ましく見ていたが――あれはそうだな、北沢くんには見せない方がいいだろう。
「うん……まず、人形は置いていこうな」
「それはさすがにわかってるよ、そうじゃなくて」
「あとはそうだな、デート中はナオキを起動しないこと」
「え…………わかった」
するつもりだったのか。
「うなじを綺麗にしていく。脛と腕の毛は処理していくこと。姿勢良く歩くこと。一人で二人前も三人前も注文しない――」
雅子が隣から付け足した。志帆は慌ててスマホを取り出す。
「えっ待って多すぎ……ナオキ、音声メモ!」
「はい。かしこまりました志帆様」
「ちょ、ママもっかい。もっかい最初から言って」
もはやデートの極意ではなく、普通の身だしなみのことしか言っていない雅子だが、志帆が真剣に聞いてうんうんと頷いているのを見ると、思わず頬が緩んでしまう。
そうか、志帆にもようやく春が来たか――
その成長が嬉しいような、少し寂しいような。
遅れて来ただけに、寂しさよりも嬉しさが勝った。
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