涙袋

「わ、た、ぬ、き、くぅ~ん」


 背筋にぞわりと嫌なものが走る声に、また呼び止められてしまった。


 何故私が常務室に入ろうとするのがわかるのだろうか?

 予想通り、副社長室のドアがうっすらと開いて、真野さんが顔を出している。


 心の中で溜息を吐きながらそちらへ向かうと、真野さんは笑顔で扉を全開にして手招きした。やはり秘書が居ない。この前頼まれたスパイの件の、進捗状況を聞こうとしているんだろう。


「どうかね鈴木くんは。小野田社長と何をこそこそやっていたのかわかったかい」


 やっぱり。いつもの(応接用のソファーに座った私の周りを無意味にぐるぐると回るという)儀式もそこそこに、珍しく真野さんが即本題に入った。


「真野副社長……その件でしたら、やはり私は適任ではないかと」


 間がある。いつも愛想笑いの私が真野さんに対して、ここまではっきりと反旗を翻したのは初めてだ。


 私は今まで、色んな事をなるべく穏便に済ませたい性格である――のと物理的に距離を詰められるのが嫌で、真野さんの、業務と何ら関係ない理不尽な要求に抵抗できなかった。


 真野さんは驚いたのか一瞬出遅れたが、案の定、一直線に距離を詰めてくる。その速さたるや、各家庭で蛇蠍の如く嫌われる、あの黒い虫のようだ。


 私も出来れば遭遇したくはないが、頬をプルプルと振るわせながら物凄い勢いで顔を近付けてくる真野さんに比べたら、あの虫の方がまだ可愛い。


「な、ん、で?」

「……私からのまた聞きでは誤解が生じるのではないでしょうか。ご自分で確かめられるのが最善かと思われます」


 頬に真野さんの鼻先がくっついた。

 ついに来たか。今までは流石に、皮膚が触れるまでは近付いてこなかったのだが。鳥肌が立つが努めて表情を変えないようにする。今日は簡単に流されないぞ。


「私からは聞けないから君に頼んでるんじゃないか!」

「真野副社長に尋ねられてもお答えにならないことは、当然私にもお答えにならないでしょう」


 いつものように顔を近付ければ私が根負けすると、高を括っていたであろう真野さん。今日は引かない私に焦りが出てきたと見える。

 無駄に弁の立つ真野さんらしくもなく、黙ったまま私を見つめ――睨み続けることにしたようだ。そして表面上は笑顔を崩さない私。


 まったく昼間から、おっさん二人で何をやっているんだろう。


「…………」


 沈黙が続く。

 有難くないことに、真野さんの相貌が嫌というほどよくわかる。この不毛な睨めっこはもう何度目になるかわからないが、今までは私がすぐに視線を反らしていたので気付かなかった。

 彼の目の下にもうっすらと膨らみがあって、目から三センチほど下方向へと続いている。膨らみそのものは大きいが、下方向にはあまり伸びていない私のそれと、少し違う。


「涙袋と目袋はぜんっぜん違うから」という志帆の言葉を思い出した。なるほど、こういうことか。


「……わかった」


 私が涙袋と目袋の違いを認識している間に、真野さんの方が根負けしたらしい。ひどく悔しそうにか細い声で言うと、ようやく顔を離してくれた。


 助かった。これが志帆の言う目袋というやつか――そう意識しだすと、どうにも吹き出してしまいそうだったからだ。



「ならば今度鈴木くんを交えて、三人で呑もうじゃないか」


 余計に話がややこしくなってしまったようだ。

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