桜道という通りは、横浜市内だけでも俗称も含め数か所あるのだが、我が家は山手公園近くの桜道沿いにある。


 最寄りは石川町駅で、辺りは静かな住宅街だ。

 私のご先祖様はここに一戸建て三棟とその土地、桜道を挟んで向かいに建つ七階建てのマンション、それから赤坂の一ツ木通りにある、七階建ての細長いビルを遺してくれた。赤坂のビルは戦前、ご先祖様が商店を出していた場所であるらしい。


 これらはほとんど、長兄の雅春が一人で相続するはずだった。


 先祖代々長男が継いできたのだし、当然相続税も物凄い額なので私は特に不満を持つこともなく、実家の遺産は当てにせず育った。幼い頃から体が弱く、最初から何もかもを諦めたようなところがあった次兄の雅之も、それは同じだったと思われる。


 私は必死に勉強して東大へ行った。父が長兄を溺愛するのを見て育ち、子ども心に三男である私には、あまり金や手間をかけてもらえないだろうと悟ったからだ。

 そして長兄は、父から教育費を惜しみなく注ぎ込まれ、有名私立大学に入学した。


 ところが兄は「俺は俳優になるんだ」と言って大学を中退し、家を出て行ってしまった。兄を跡継ぎだけでなく、医者か官僚にさせたかった父は激怒し、兄を勘当した。


 弟の私が言うのも妙であるが、長兄はハンサムだった。幼い頃から美少年だと言われていたし、それこそ小学生の頃から、ずっと女の子にモテていた。

 私と長兄の顔は、志帆が幼い頃区別をつけられなかったほど似てはいるが、私はあまり女性にモテた記憶がない。


 顔はそっくりなのに、我ながら内向的で大人しい性格の私と比べて、自由で少し意地悪なところがある兄は、とにかくモテた。

 だから私は案外、兄は本当に俳優として成功するんじゃないかと密かに思っていた。


 未だ、兄をテレビで見かけることはないが。


「おじいちゃんおはよっ」


 志帆は仏間に飾られた父の遺影に、敬礼しながらフランクに挨拶していた。昭和の父親そのものだった厳めしい顔は、今は額の中から孫娘に向かって優しく微笑んでいる。


 父は晩年、兄弟で唯一子どもをもつ私を跡継ぎにすると決めた。


 長兄は最期まで勘当されたままだった。次兄は体への負担が軽い土地に住みたいと、岡山に越して地方公務員になり、夫婦で静かに暮らしていた。横浜に帰るつもりはないからと、次兄も父の決断に同意する。


 その頃私たち夫婦は東京にいたが、通えない距離でもないので相続を機に帰ることになった。

 今、私たち家族が暮らすこの家は、実家の隣に父が、将来長兄とその家族を住まわせるために建てたものだった。


「ナオキ、私のおじいちゃんだよ」

「御祖父様、初めまして。ナオキと申します。志帆様専属の執事です」


 ナオキは写真だとわかっているのかいないのか、遺影の父にもきちんと頭を下げて挨拶していた。


 七代目の父は、AIに夢中になっているこの九代目を見てどう思うだろうか。私が相続を受けたのは、役員になりたての最も忙しい時期だった。その頃は志帆も家を出ていたし、十代目のことにまで考えが及ばなかった。


 もはや遺産があるから安泰という時代ではない。莫大な相続税と維持費を、この子は将来背負っていけるのだろうか?

 志帆もいつかは結婚するだろうと、一般的な考えしか持たないでいた。今の彼女はナオキと結婚すると本気で言い出しかねない。


「志帆が将来この家を継ぐんだよ、自覚ある?」

「そっか。私あれじゃん、当主!」

「そう。志帆は九代目ね」

「おぉ……九代目! 渡貫家最後の当主!」

「途絶えさせる気満々か……」

「だって、最後の当主ってなんかかっこよくない?」

「はい。さすが志帆様、とても素敵な響きです」

 同意するなナオキよ。継いだからには、私だって渡貫家の歴史をここで途絶えさせたくはない。


「パパ、私最後の当主として頑張るから安心して!」

「私も、この命尽きるまで志帆様にお仕え致します。ご安心くださいお父様」

 志帆は何故か誇らしげにそう言ってのけ、ナオキが嬉しそうに続く。


 全く安心できないんだが。それとAIの命が尽きることはあるのだろうか?

 私は額の中で微笑んでいる父を見上げながら言う。


「おじいちゃんだって、渡貫家を残していってほしいと思ってるよ」

「だっておじいちゃんは長男教でしょ、跡継ぎが女の私って時点でそんなに期待してないよ」

「んっ? 長男教?」

「長男ばっかり大事にすることを、宗教みたいって揶揄する言い方」

「なるほど、まさにうちのことじゃないか」


 父はもちろん長兄を一番可愛がっていたが、自由な性格の兄に長男の重責は辛かったのだろうと、今この年になれば思うところもある。長男ばかりを大切にするのも代々そうしてきたからで、父が悪いという訳でもない。

 子どもの頃、兄と差を付けられたことが、寂しくなかったと言えば嘘になるが。


「ひどいよね。生まれる順番なんて選べないのに。だからパパの気持ちわかるよ」

「志帆……」

「私、雅春伯父さん嫌いなんだ」

「どうして、大人になってからはあまり会ってないだろ?」

「実家出てから一回会った。雅春伯父さん、下北で劇団やってるから」

「そうなの?」


 初耳だった。私は長兄とは、もう長いことまともに話していない。

 勘当されてからの兄は父が家を空けた隙に、母の前にだけ時々顔を出していたようだ。相続後、母の隣に私たちが越してきてからはそれもなくなった。父の葬儀では顔を合わせたが、必要最低限の会話をしたのみだった。


「伯父さん、俺は劇団夏季とか帝都劇場の偉い人と繋がってるんだぜとか言ってたから、じゃあ紹介してよって頼んだんだけど。歌も聞かないで『志帆の実力じゃ無理だなぁ』とか言ったんだよ! だから大嫌い」

「いや志帆、それは……」


 伯父さんは劇団夏季とか帝都劇場の偉い人と、本当は繋がりなんてなかったんだと思うよ……。

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