第41話 思い出⑤
それは、両親が海外出張することになり、そのことで生じた漠然とした不安からだった。
「なんつーか、スケールでかいな」
「あはは、すみません。いきなりこんな話……」
忘れてください、と星音は、口にしようとした。
しかし……
「事情は知らないけどさ……ま、自分のやりたいようにやるのが、いいんじゃね?」
「……え?」
こんな話、さらっと流してしまおう……そう、思っていたのに。
思いの外男の子は、ちゃんと話を聞いて、それに答えてくれた。
それは、思い悩んでいた星音にとって……両親に話をしようと決めた、その後押しとなるものだった。
「やりたい、ように……?」
「そうそう。悩んだってしょうがないって。てか、なにを選んでも後悔しないなんて、ありえないだろうし。
神様じゃないんだ、選ばなかった方の先になにがあるかなんて、わからない。ゲームなら、選ばなかった方の選択肢にもなにがあったのか、わかるんだけどな」
「……」
「将来の不安、てやつ? 俺は中三なんだけど、将来のこととか全然でさ。でもまあ、思い詰めても、いいことなんて一つもないさ。なんだかんだなんとかなるかなって思ってる。
……おっ、晴れてきた」
男の子は、飛び上がるようにベンチから立ち上がった。彼の言葉は、なんと抽象的で、楽観的で、ぼんやりしたものだろう。
とても、参考にするような言葉ではない。
けれど、星音にとってその言葉は……なによりも心に響いたものだった。
男の子の言葉に反応し、首を動かす。見れば、いつの間にか雨はやみ……天を仰げば、青空が見えつつあった。
雲が晴れていくその姿は。まるで、星音の中の悩みが、晴れていくかのようで。
「じゃ、俺はそろそろ行くわ。キミも、また雨降らないうちに帰りなよ。
あと、また会えたらその子、抱きたいな」
「ぁ……」
振り向き、にこっと微笑んだ男の子。その笑顔に、星音は目を奪われてしまった。
これまで、星音にこんなにも屈託ない笑顔を向けてくれる相手など……いなかった。少なくとも、子供が子供でなくなった数年前からは。
楽観的な彼の言葉は、なんてひどく曖昧で……心が、楽になる言葉なのだろう。
なにを選んでも、きっと後悔はする。ならば、自分のやりたいようにやる。
今まで、星音はいろんなことを考えすぎていた。その結果として、いろんなものを溜め込んでいた。いつか、爆発してしまうかもしれなかった。
「あ、の……! お、名前を……!」
はっとして、星音は男の子の背中を追った。
……しかし、星音の声は、続かなかった。足を進めた男の子は、そのまま駆け出してしまったから。
急いでいるのかもしれない。そう思うと、言葉は出なかった。
屋根から出た男の子を、天から差す日差しが照らしていた。
伸ばしかけた手を、星音はとっさに引っ込めた。
「……あ」
そして、引っ込めたのとは逆の手に握りしめていた……ハンカチを、見た。
彼に渡され、髪を拭かせてもらって……
「あのっ……」
再び視線を上げるが、彼の姿はもうなかった。
名前も、聞いていない男の子の……ハンカチを、返しそびれてしまった。
自分の体を拭き、水分を吸ったハンカチ……濡れてしまったそれを、広げて見つめる。
ハンカチの端には、なにか文字が書かれていた。
これは……名前、だろうか。持ち物に名前を書く……小学生の頃、よくやったものだ。
「……たて、みや……いや、たちみや、かしら。
たち、みや……かなで……?」
その文字を、言葉にして口にする。
ふと、胸が高鳴る感覚があった。この高鳴りは、いったいなんだろう。
彼は、中三だと言っていた。自分と同じだ。
もしかしたら、同じ学校にいるのかもしれない。奏という名前は、男の子にしては珍しい。と思う。
同じ学校なら、探すのは難しくない。
……そうでなくても、進学するとなれば、もしかしたら同じ高校で会う、なんてことがあるかもしれない。
……そんな偶然、あるわけない。小学生から中学校へ上がるのとはわけが違うのだ。高校なら他県に行く可能性だって、充分にある。
仮に同じ高校だったとして、どちらも受かるとは限らない。
それは、頭の端で理解している。
それでも……百パーセントではない限り。少しくらいは、その偶然を信じてみてもいいのではないかと、思った。
「……たちみや、かなで……くん」
ハンカチを握りしめ、彼の名前を口にする。
その星音の表情からは、もう悩みは消えていた。ほんの僅かに、ほほえみを浮かべて。
シロを抱き、立ち上がる。
屋根から外に出れば、日差しが照りつける。眩しさに目を細めつつ、星音は足を進めた。
お父さんも、お母さんも、心配している。だから、まずは謝って……そして、ちゃんと言おう。
自分の意見を。自分の、後悔しない道を。
帰宅のため、歩みを進める星音。上機嫌に鼻唄を歌うその笑顔を、シロもまた嬉しそうに、見つめていた。
「にゃあっ」
――――――
……眠っていた星音の意識が、ゆっくりと浮上していく。
「ん……ふぁ」
目を覚ました星音は、ベッドの上で起き上がり、大きなあくびをした。
こんなだらしのない姿、誰にも見せられない。親友の
目ぼけた目を擦りつつ、星音は自分の隣にぬくもりがあるのを見つけた。
隣には、シロがぐっすりした様子で、眠っていた。
その姿に笑顔を浮かべつつ、シロの頭を撫でた。
「ふぁ、あ……」
二度目のあくび。ベッドから立ち上がった星音は、洗面所へと向かう。
そのため、部屋から出ようと襖に手を掛けるが……足を止める。
それからゆっくりと、首を動かして……テーブルの上に置かれたものを見て、柔らかに微笑んだ。
「……今度、返さないとね」
それだけつぶやいて、星音は部屋を出た。
テーブルの上には、ハンカチが置かれていた……きれいにアイロンにかけられ、折りたたまれたハンカチが。
そのハンカチには……『立宮 奏』という文字が、書かれてあった。
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