番外編 ハッピーバレンタイン後編
「お、おじゃましまーす」
「はい、どうぞ」
学校での授業や昼休み諸々が終わり、放課後。
もう、何度目かになる自宅訪問。それでも、一人暮らしの女子の家に上がるというのは、緊張するものだ。しかも、学校がある日の放課後の訪問は初めてだ。
……いや、一人暮らしではない。正確には、一人と一匹……
「にゃ〜!」
「! シロー、ただいまぁ!」
扉を開け中に入ると、部屋の奥から駆けてくる足音。
それは小さな足音で、しかし星音と奏がそれを聞きのがすことは、ない。
なぜなら、奏にとっては大好きな存在であり、星音にとっても大好きかつ飼い猫だからだ。
駆け寄ってきた白猫のシロは、飼い主の姿を確認するやぴょん、と飛ぶ。
星音は膝を曲げてかがみ、自身の胸に飛び込んでくる愛猫をキャッチした。
「あー、シロー! 元気にしてましたかー!」
「にゃおー」
シロを抱きしめ、頬ずりする星音。
学校では理知的なクール美少女といった雰囲気だったが、今やそれは見る影もない。
もっとも、奏にとってはもはや見慣れた光景でもある。
「みゃ!」
「おー、こんにちはシロー!」
ふと、シロの視線が奏に向く。そして、前足を差し出すではないか。
大好きな猫に懐かれた奏は、表情を緩ませつつシロとハイタッチ……ならぬ、指先で肉球ぷにゅをした。
猫好きの奏にとって、これは至福の時間である。
「さ、立宮くん。上がってください」
玄関で靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れる星音の後ろ姿を見て、奏もそれに続いた。
一人暮らしの女の子の部屋だからか、とてもいいにおいがするなと、奏は感じていた。
広間のソファにシロと荷物を置いてから、星音は冷蔵庫へと足を進めた。
そして、扉を開き……中からなにかを、取りだした。
「はい、立宮くん。ハッピーバレンタインです」
差し出されたお皿のに盛り付けられていたのは、チョコだ。それも、ただのチョコではない。
猫の顔の形を模した、いくつものチョコ。
それを見て、奏は目を輝かせる。
「え、え、チョコ……お、俺に?」
「はい。猫友ですから」
正直、期待はしていた。バレンタインに、わざわざ放課後に家に呼ばれて。
それなりに仲良くなったとは思っていたし、期待はしていた。男の子だもの。
それでも、まさかこのような猫型チョコレートだとは思わなかった。
しかも、これはおそらく市販のものでは、ない。
「これって、まさか……」
「はい、手作りです」
奏が聞く前に、星音が笑って答える。
手作りの、バレンタインチョコ……これほど甘美で脳を震わせる言葉が、果たしてあるだろうか。
これまでは、母と妹から家族チョコを貰ったことがある程度だった。
だというのに、まさかクラス一の美少女と名高い星音から貰うことになるとは。人生なにが起こるか、わからない。
「さ、どうぞ」
「う、うん」
勧められるままに、奏はチョコを一つ摘まむ。
そして、それが本物であることを指の先で確かめつつ、口へと運ぶ。その際、星音にじっと見られていることに、奏は気づいてはいない。
ついに、一口サイズのチョコをぱくりと、口の中に入れる。
チョコを口の中で堪能するように、味わう。噛み砕いくと、口の中でさらに甘みが広がった。
しばらく咀嚼し、ごくんと飲みこむ。
「……ど、どうでしょうか」
チョコを取り出し、渡した時には自信満々に見えた星音。
しかし、チョコを食べる奏の姿を見るうちに不安になったのか、恐る恐るといった様子で聞いている。
眉を下げ、上目遣いで聞く星音の姿の、いじらしいことこの上ない。
そんな様子の星音に、応える言葉は一つだ。
「うん、すげーおいしい」
「! 本当ですか!?」
瞬間、花が咲いたように星音の表情が、明るくなる。
それは、嘘偽りでなく、本心で喜んでいる時の顔だ。
奏だって、そうだ。今の返事に、お世辞も嘘偽りも存在しない。
間違いなく、本心だ。
「よかったぁ。お口にあわなかったら、どうしようかと」
ほっと胸を撫で下ろす、星音。しかし、こういう考えも出来る。彼は気を遣ってくれたのではないかと。
奏は、今日一日誰からもチョコを貰った様子はなかった。
その彼が放課後に女子に家にまで呼ばれ、冷蔵庫で冷やしていたチョコを貰う。
そこまでしてくれた相手に、気を遣う……そう考えることも、あっただろう。
しかし……そうではない。
今の言葉は、まぎれもなく奏の本心だと。今日まで彼と接してきた星音には、わかった。
「はい、どうぞ」
「うん」
チョコを、皿ごと渡された奏は、促されるままにソファに座る。
そしてまた一つまみ、チョコを食べる。
星音は、奏の隣に腰を下ろす。
「本当は、きれいな箱に入れて、きれいにラッピングをしたかったんですが……」
「いや、どうせこの場で食べるなら、そこまで気を遣ってもらったら逆に悪いよ。
それにこのお皿だって、わりと豪華なお皿じゃない」
ぱくり、ぱくりと。チョコを食べる手が止まらない。
チョコが一つ消えていく度に、星音の表情があたたかくなるのを感じた。
正直な話、猫の顔を模したチョコなど、食べるのに勇気がいる。大好きな猫ちゃんを食べるなんて。
だが、奏が猫好きだと、星音は知っている。その上で、猫チョコのチョイスだ。
それに、一つ一つが星音の手作り。もったいないという気持ちを、軽く乗り越えていく。
「いや、本当においしいし……猫の顔も、一つ一つ違うんだな。時間かかったんじゃない?」
「ふふっ、まあそれなりに。ですので立宮くんには、期待していますからね?」
手間と時間は、相当なものだろう。チョコどころかご飯もまともに作ったことのない奏でも、それくらいわかる。
猫屋敷 星音の、手作りチョコ。しかもこれは、猫好きの奏のためのチョコと言える。
これはもう、すでに胸がいっぱいだ。もちろん全部食べるが。
「ぬぐ……が、頑張る」
「ふふっ、冗談ですよ。あまり、気負わないでください」
星音はこう言ってくれているが、これだけのものを貰った以上、相応以上のものを返さなければならないだろう。
なにがいいか……奏もチョコを作るか、それともチョコ以外のお返しを考えるか。
ホワイトデーのお返しは、必ずしもチョコでなくてもいいとは聞く。
帰ったら、妹に聞いてみようと誓う奏だ。
「にゃー」
「! 悪いな、これはお前には食べられないよ」
奏の膝に乗ってきたシロが、物欲しそうな鳴き声を上げる。その視線の先は、奏が摘まんでいるチョコだ。
本当ならば、シロにそんな甘い声を出されたら、食べ物をあげたい。めっちゃあげたい。
だが、猫にチョコはNGだ。
「はい、シロはこっち」
「みゃ!」
そのやり取りを見て、星音はシロの前足の下に手を差し入れ、抱き上げるようにして自分の膝に座らせる。
制服姿の星音が、シロと戯れている。写真で送られてくることはあったが、生で見るのは初めてだ。
なんとなく、奏は横目でその様子を、チラチラ見ていた。
「よしよーし」
「あーむ。……ごちそうさまでした、すげーおいしかった」
「ふふっ、ありがとうございます」
ソファの背もたれに、体重をかける。
放課後、猫友の家に呼ばれ、チョコをごちそうになる……じんわりと、幸せを噛みしめる。
「猫屋敷さん」
「はい」
「来月、お返し待っててよね」
「……はい」
静かな、夕暮れ時。
静かな部屋の中には、「にゃ~」とシロの鳴き声だけが、聞こえていた。
猫好きの俺が、クラス一の美少女と猫友になった話 白い彗星 @siro56
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