第22話 スイートルーム
唯衣那は鼻歌を歌いながら、豪華なバスルームのシャワーコックをひねった。
プレジデンシャルスイートは、リビング、ダイニング、キッチン、書斎、ベッドルームを贅沢に配した、ホテルに一部屋だけの特別なスイートルームだ。
大理石で作られたバスルームにはジャグジーやサウナも完備されている。
大きな窓から眺める景色も格別だ。
一通り部屋を見て回って満足したのち、退屈した唯衣那は、玲司を待つ間にシャワーを浴びることにしたのだった。
璃子の誕生日パーティーが終わり、プレジデンシャルスイートを訪れた泰司は、バスルームから聞こえるシャワーの音に気がついた。
“…織江か?”
パウダースペースのソファに置かれた、ドレスとハイヒールを一瞥し、泰司はキッチンに向かった。
ワインセラーを開き、織江の好きなワインをリビングに用意する。
上着をぬいで襟元を寛げ、ソファに腰を下ろすと、突然、玄関の扉が開く音がした。
ガチャリ。
足音とともに、部屋に入ってきたのは玲司だった。
ふたりの視線が合い、一瞬の沈黙が流れる。
先に口を開いたのは玲司だった。
「ここで何を?」
「そっちこそ、この部屋を使うときは連絡しろと言ってあるだろ。」
泰司は額を押さえてため息をついた。
玲司が次の言葉を発しようとした瞬間、バスルームに続く扉が開いた。
“…!”
シャワーを終えてバスタオルを纏い、リビングの扉を開いた唯衣那は、振り向いたふたりの男の視線を浴びて戸惑った。
ソファに座る見知らぬ男の、困惑したような視線を避けて、助けを求めるように玲司を見ると、強張った表情の玲司と目が合った。
玲司の顔から、徐々に色が失われてゆく。
唯衣那から視線を逸らして後ずさると、玲司は踵を返した。
「え?ちょっと待ってよ、玲司!」
足早に去ろうとする玲司を、唯衣那は慌てて追いかけたが、手を伸ばす唯衣那の目の前で、玄関の扉は音を立てて閉められた。
バスタオル姿では、これ以上追いかけられない。
「何なの?!も~!わけわかんない!」
玄関でしゃがみこんだ唯衣那のもとに、ソファに座っていた男が近づいてきた。
「…はじめまして。君は誰かな?」
「え?その…」
「とりあえず、服を着ようか。」
ホテルの長い廊下を歩きながら、気分が悪くなった玲司は、口元をおさえた。
“くそ、ここで吐いちゃだめだ。”
客室階には、共用のトイレがない。
“下の階に…”
エレベーターホールにたどり着き、下階行きのボタンを押して、玲司は耐え切れずしゃがみこんだ。
エレベーターが到着し、扉が開く。
「玲司さん…?どうしたんですか?!」
到着したエレベーターから降りてきた璃子は、しゃがみこむ玲司に気がついて駆け寄った。
「顔が真っ青ですよ。気分が悪いんですか?」
玲司の頬をつたう汗が、床に落ちる。
「玲司さんの部屋は?」
玲司は首を横に振った。
「とりあえず、私の部屋に行きましょう。この階ですから。」
璃子は玲司に肩を貸すと、自分が泊まる予定の部屋へと急いだ。
部屋の扉を開くなり、玲司は璃子の手を振り解き、バスルームに駆け込んで鍵をかけた。
こみあげる嫌悪を吐きだし、玲司はバスルームの床に倒れこんだ。
“はあ、最悪だ…”
高校生になったばかりの頃、玲司は無気力な日々を送っていた。
両親の反対で、それまで生活の中心だったサッカーをやめたからだ。
両親は玲司がS大学の経営学科に進学することを望んでいた。
祖父から続く伝統を守り、将来、玲司を佐伯財閥の重要なポストにつけるためだ。
両親は放任主義で、幼い頃から玲司にほとんど関心を寄せてこなかった。
それにも関わらず、将来を束縛しようとする両親に反抗して、玲司は毎日遅くまで遊びまわった。
落第こそしなかったものの、S大学進学には程遠い成績だった玲司のもとに、家庭教師としてやってきた女子大生が、青木遥香だった。
「玲司くん、よろしくね。」
おっとりと笑った遥香は、包容力を感じさせる、可憐で柔らかい雰囲気の女性だった。
もしかしたら、一目惚れだったのかもしれない。
遥香が玲司にとって特別な存在になるのに、長い時間はかからなかった。
お人よしで、一所懸命で、涙もろいのに芯が強く、真剣に向き合ってくる遥香を、玲司は信頼し、尊敬し、そして、本気の恋をした。
想いが通じたときの気持ちは、言葉にできない。
心を許せる人が側にいる幸福に浸りながら、玲司は生まれて初めての安らぎを感じていた。
しかし、遥香と結ばれて浮足立っていた玲司の初恋は、最悪の形で終わりを迎えることになる。
ある日、体調不良で早退した玲司が自室に戻ると、ベッドが乱れ、バスルームで誰かがシャワーを浴びていた。
頭を鈍器で殴られたようなショックを受け、玲司は立ち尽くした。
しばらくするとバスルームの扉が開き、バスタオル一枚の遥香が出てきた。
遥香は玲司の姿を見て動揺した。
「なんでいるの?学校は?」
「そっちこそ、俺の部屋で何してたの?」
遥香は目をそらした。
玲司は帰り道に邸宅の門で、父親の泰司の車とすれ違ったことを思い出した。
「…まさか、相手は父さん?」
図星をさされたように、遥香の顔が赤くなった。
足元が沈み込み、世界がゆがむような気がした。
「いつから?」
問い詰める玲司に、遥香は答えた。
「…玲司くんの、家庭教師になる前からだよ。」
こらえきれない吐き気に襲われ、玲司はトイレに駆け込んだ。
しばらくして、バスルームから出てきた玲司は、いつもの調子で笑った。
「ちょっと飲みすぎたかなー。ごめんね。」
部屋を変えてもらおうと言って、フロントに電話をかける玲司を見ながら、璃子は心配になった。
先ほどの玲司の様子は、単に酒に酔っただけには見えなかった。
何か、もっと深刻な症状を抱えているのではないだろうか。
「ビューバススイートが空いてた。この部屋よりはグレードが落ちるから、申し訳ないけど…」
「お部屋のことは全然。それより、本当に大丈夫ですか?まだ顔色が…」
「あー、平気平気。そのうち良くなるから。悪いけど、少しここで休ませて。」
ごめん、と言いながら、玲司はソファに沈み込んだ。
心配そうに見つめる璃子を見て、玲司は少し笑いながら聞いた。
「璃子ちゃんこそ、大丈夫?化粧室から戻ってきてからずっと、上の空だったけど。はじめてのパーティーで、疲れたんじゃない?」
「あ、いえ、私は大丈夫です。」
上の空だったのは確かだが、それは月島と唯衣那の行方が気になっていたからだ。
相変わらず玲司はよく見ている。
いつか、考えを全て見透かされそうで不安だ。
璃子は、いそいそと部屋を移る準備をはじめた。
しばらくして、顔色が戻ってきた玲司は、ぼんやりと思った。
“20歳の誕生日の夜が、いとこに部屋で吐かれて終わりじゃ、あんまりだよな。”
玲司は少し考えたのち、時計で時間を確認すると、準備を終えた璃子に言った。
「璃子ちゃん、コート着てくれる?」
璃子は玲司に連れられて、ホテルの屋上にやってきた。
眼前に広がるパノラマの夜景を見渡しながら、璃子は小さく歓声を上げた。
「すごい。綺麗…。」
美しい光に包まれた建物の間を、縫うように流れてゆく光の粒は、車のスポットライトだ。
璃子が光の流れを目で追っていると、どこからか大きな音が近づいてきた。
見上げると、何かがこちらに向かって急速に近づいてくる。
ヘリコプターだ。
驚いて振り向くと、玲司は笑いながら璃子の手を引いた。
ヘリがポートに着陸すると、玲司は璃子を連れ、慣れた様子で機内に乗り込み、シートベルトをして無線を装着するよう促した。
“何これ?いきなりヘリって…バチェラー?!”
混乱する璃子をよそに、機体が浮かび上がる。
璃子は思わず玲司の腕を掴んだ。
「ひ、飛行機に乗るのは、初めてなんです!」
「普通の旅客機なら、小さい頃に散々乗ってるよ。大丈夫だから。」
「っーーー!!」
声にならない悲鳴をあげる璃子と、それを面白がる玲司を乗せて、ヘリは急上昇した。
操縦士に案内されながら、夜空をクルージングする。
「すごい、すごい!綺麗~!」
慣れてきた璃子は、怖がっていたことも忘れて、空の旅に夢中になった。
星空は、どこまでも続くように広い。
眼下の街は、光り輝くジオラマのようだ。
「そろそろかな。」
玲司が指差す方向を見ると、テーマパークに上がる花火が見えた。
次々と上がる花火の周りを、ヘリが旋回する。
「花火って、本当に球形なんですね…」
「…それが感想?」
「感動しました。綺麗…」
夜空に浮かぶ光を瞳に映して、顔を輝かせる璃子の横顔を、玲司は満足そうに見つめた。
ホテルに戻り、案内されたビューバススイートは、その名のとおり眺めの良い広いバスルームがある、申し分なく豪華なスイートルームだった。
ジャグジーに浸かり、夜景を眺めながら、璃子は先ほどの夢のような体験や、幸せな一日を思い返した。
ふとよぎった月島と唯衣那の姿をかき消すように、璃子はぶくぶくと浴槽に沈んだ。
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