第23話 書置
…ポーン。
聞きなれないドアベルの音で、璃子の意識はうっすらと浮上した。
瞼を開けると、知らない部屋にいた。
少し間をおいて、状況を思い出す。
“そうだ、ホテルに泊まったんだ。”
もぞもぞと体勢を変え、ベッドサイドにあったはずの時計を探す。
デジタル表示が11時15分を示しているのを見て、璃子は飛び起きた。
“…!大変!”
予定の時刻を過ぎている。
今日は玲子主宰の昼食会があり、ドレスアップのため、11時にホテルのサロンで待ち合わせをする予定だった。
ピンポーン…、コン、コン、コン…
再びドアベルが鳴り、ドアがノックされる。
慌ててベッドをすり抜け、インターホンに応答した。
「は、はい!」
「月島です。お電話が繋がらなかったので、お迎えに参りました。大丈夫ですか?」
「すみません!…すぐに準備します!」
初めてのパーティーで思った以上に疲れていたのか、昨夜はベッドに横たわった瞬間、髪も乾かさずに眠ってしまったらしい。
“うわぁ、やっちゃった…”
充電を忘れたスマートフォンは、電源が落ちていた。
ひどい寝ぐせで髪がボサボサだ。
寝すぎて目元が浮腫んでいる。
最低限の身だしなみを整え、寝ぐせをごまかすように髪を束ねると、璃子は大急ぎで部屋を出た。
「すみません…お待たせしました。」
ほとんど寝起きのままの姿を見られるのが恥ずかしく、廊下で待っていた月島から視線をそらすように璃子は俯いた。
浮腫んだ目元を両手で隠し、指の隙間から視界を保つようにして歩み寄ると、月島はスーツの胸ポケットから眼鏡を取り出した。
「使いますか?」
「え?でも…」
「これはダテです。正確にはUVカットですが。」
月島は促すように、璃子の顔の前で眼鏡を広げた。
「…じゃあ、あの、はい。」
目元を隠していた手を放すと、そのまま、ゆっくりと眼鏡がかけられる。
月島の指先が顔の両側をかすめてゆき、心臓がむずがゆくなった。
顔をあげて目が合うと、月島は満足そうに微笑んだ。
「わりと似合いますよ。行きましょう。」
サロンではスタッフが璃子を待ち構えていた。
座るなり、温冷スチーマーのミストを繰り返し浴びせながらぐりぐりとマッサージされ、髪はアイロンで引き延ばされ、巻かれ、結われた。
あらゆるものが顔に乗せられ、除かれ、塗られ、拭かれ、また塗られて塗り重ねられた。
取り囲まれてされるがままとなり、気がつくと顔も髪もすっきりと整えられていた。
“す、すごい。早業…!”
繰り返しお礼を言うと、スタッフは安堵したように微笑んだ。
スタイリストの佐原が用意した服は、細身のラインとシースルーのスリーブが美しいホルダーネックの白いワンピースだった。
花や蝶をモチーフとした大ぶりのジュエリーを添えることで、モダンで洗練された印象ながら、年相応の可憐さもあるスタイルとなっている。
両端にダイヤモンドとマザーオブパールでできた2匹の蝶が舞うプラチナのオープンリングは、璃子の心をときめかせた。
「花にとまる、蝶、ですね。」
そう言って、佐原は微笑みながら、璃子の右手の人差し指にリングをはめてくれた。
昼食会は、璃子と同年代の令嬢との交流を促すためのもので、数人の令嬢とその親族が招かれていた。
ホストである玲子を補佐する月島を見て、令嬢やその母親たちは密かに色めきたった。
互いに挨拶をしながら、昼食会は和やかに終わり、璃子はそのまま令嬢たちとアフタヌーン・ティーを楽しむこととなった。
ラウンジの個室に移り、当たり障りのない話題でしばらく談笑していたが、話題が途切れたことを皮切りに、令嬢たちは口々に月島について話しだした。
「気になっていたのだけど、玲子さんの補佐をされていた方、お名前は?」
「整ったお顔立ちで、スタイルもよくて、スーツ姿が素敵!」
「すごく綺麗で…騎士というより王子様かも!」
「品もあるし、知的な感じ!」
「こんなことを言うのは恥ずかしいけど、自然な色気があるというか…話しかけられてドキドキしちゃった!」
「年齢は?独身なの?」
「実のところ、璃子さんとお付き合いしているとか?」
みな、表面上の礼儀はわきまえ、直接的には触れないが、ネットで話題になったことは知っているのだろう。
好奇心と、あわよくば月島と懇意になりたいという乙女心をないまぜにして、顔を輝かせている。
「お名前は、月島
答えながら、璃子は考えた。
“月島さんの恋人…もしかすると奥さん…、いるのかな?”
月島ほど魅力的な人物は、いったいどんな人と付き合うのだろう。
“選ばれた人は、幸せだろうな…”
茶会も終わり、帰宅すると、マンションの部屋には誕生日プレゼントと荷物が届けられていた。
瑠偉から貰った絵は、少し恥ずかしいがリビングに飾ることにした。
理人、玲子、泰司からもらったジュエリーと時計は、ウォークインクローゼットのジュエリーケースに大切にしまう。
“そういえば、玲司さんからもらったUSBの中身は何だろう?”
璃子はバッグに入れたままだったUSBを取り出して、ノートパソコンに差し込んだ。
フォルダを開くと、中身は動画ファイルのようだ。
クリックして再生すると、デコレーションされた華やかな3段ケーキと、ドレスアップしてケーキの前に立つ幼い少女が映し出された。
璃子だ。
ケーキには、蝋燭が5本載っている。
周囲の人々がバースデーソングを歌う声が流れ、璃子が蝋燭の炎を吹き消すと、拍手と笑い声が響いた。
「おめでとう〜璃子。何をお願いしたのかな〜?」
璃子の髪をなでながら、質問する美由紀にカメラが近づく。
璃子は内緒話をするように、口元に手を寄せ、美由紀の耳元に何か囁いた。
璃子の答えに頷くと、美由紀は笑顔でカメラに手招きをし、近づいたカメラに向かって微笑みながら、小声で囁いた。
「玲司くんと、結婚したいって。」
パンッ!
璃子は思わずパソコンを閉じた。
なんとも形容しがたい、気まずい気分だ。
この動画をフォルダのトップに持ってくるなんて、わざとじゃないだろうか。
悪意を感じる。
からかうように笑う玲司の顔が浮かんで、璃子は唸った。
動画はどれも、幼い璃子たちを映した短いホームビデオだった。
動画を撮影したのは、玲司のようだ。
ときどき、玲司らしき少年の声が、カメラの前の人物と会話する。
誕生日やクリスマスなどのイベントの動画のほかに、固定された画面の中、サッカーを練習する少年と、そこに乱入する璃子を映した動画が沢山あった。
サッカーをしている少年は、おそらく玲司だろう。
動画の中の璃子は、玲司に駆け寄り、しきりに話しかけ、玲司の気を引こうとしていた。
屈託のない笑顔が眩しく、明るく活発な雰囲気が伝わってくる。
“私、こんなに無邪気だったんだ…”
幼い自分の姿は、とても意外だった。
小学生のころの自分は、どちらかというと、内気で、大人しいタイプの子どもだった。
いつも、周囲の様子を覗い、自分から主張をすることも、あまりなかった。
動画の中の璃子は、自分とは全く別の女の子に見えた。
全ての動画を見終え、璃子はワークチェアに座ったまま、膝を抱えた。
動画を見ても、何も思い出せない自分がもどかしかった。
一体、何が自分の記憶に蓋をしているのだろう。
記憶喪失の原因となった出来事を思い出すことが、璃子にとってプラスになるかは、わからない。
特定の出来事以前の記憶を失う、解離性健忘症の原因となるのは、大きなストレスを伴う辛い体験であることが多い。
そうした体験を忘れて、心を守る側面もあるのだ。
幼少期を思い出さなくても、これから璃子として生きていくことはできる。
美香は、自分を愛してくれていた。
佐伯家は記憶のない自分を受け入れてくれている。
誘拐された自分に、何があったのか。
どうやって美香に出会ったのか。
無理に解き明かそうとしなくても、いいのかもしれない。
けれど、幼いころの記憶がないことが、どうしても心に引っかかる。
璃子は手帳を開き、大切に挟んでおいたメモ用紙を取り出した。
美香が亡くなる前に残した、最後の書き置きだ。
“昔お世話になった人に会いにいきます。明日もどります。ごめんね、試験がんばって。”
美香が会いに行った人物が誰だったのかは知らない。
知る手掛かりがないこともあり、今まで、あまり気にしたこともなかった。
しかし、もしかするとその人物なら、美香の、そして自分の過去について、何か知っているかもしれない。
“今なら、探し出せるかも…”
メモ用紙を見つめ、璃子は決心した。
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