第9話 晩餐会
スモークガラスの高級車に乗せられ、千智は玲子とともに、佐伯家の邸宅へと向かった。
車はしばらく郊外へと進み、鬱蒼と生い茂る森の中の道を抜け、警備員のいる大きな門を通った。
10分ほど走ると、広大な敷地の中、照明に照らされ白く浮かび上がる豪華な建物が姿を現した。
直線的でモダンな佇まいは、まるで現代アートのようだ。
運転手は正面の車寄せに車を止めた。
エントランスの大きな扉が開き、中から初老の紳士が姿を現した。
「お待ちしておりました。皆さま既にお揃いです。」
玲子に挨拶をし、千智を見た紳士は目を丸くした。
「これは驚きました。お帰りなさいませ、璃子お嬢様。邸宅の管理を任されている、小山と申します。よろしくお願い致します。」
小山に挨拶し、玲子の後を追って、千智はエントランスホールに足を踏み入れた。
背後で扉が閉まる音がした。
大理石のホールに、玲子のハイヒールの音が響く。
高い天井を仰ぐと、天窓から満月が見えた。
バンケットホールでは、佐伯家の面々が、晩餐の席に着き、いつもより一人分多く準備された席につくはずの人物を待っていた。
璃子の祖父であり佐伯ホールディングス名誉会長の
「玲子様と、璃子様です。」
扉が開き、ふたりの到着を案内する執事の声を受けて、全員が入口に視線を注いだ。
千智は玲子に促され、一同の前に進みでると、静かに頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます。」
千智は玲子に教えられたとおり、奥に座る旺賢のそばによって膝をついた。
そして、ひじ掛けに置かれた分厚い手をそっと握り、深い皺の刻まれた顔を見上げ、長い眉の下の瞳を真っすぐに見つめながら言った。
「璃子です。おじいさま。」
緊張で手が震えた。
唇も震えていたかもしれない。
旺賢は千智の顔をしばらく見つめ、そしてうなずいた。
「おかえり、璃子。」
旺賢の言葉を聞いて、玲子は笑みを浮かべた。
「本当に、璃子、なんだな?」
席を立った理人は、そっと千智の肩を抱き、用意された椅子に座らせた。
「ありがとうございます。…お父様。」
理人は、背が高く、鋭い目が印象的で、渋い魅力のある紳士だった。
洗練された身のこなしは、余裕と自信を感じさせたが、千智を見据える瞳は、どこか悲し気に揺れていた。
「成長したな。美由紀に似ている。」
理人は、複雑な表情をした。
美由紀とは、理人の妻で、璃子の母の名だ。
そういえば、美由紀らしき女性の姿がない。
席も用意されていないようだ。
「…お母様は、どちらに?」
千智が聞くと、食卓に沈黙が下りた。
「まずは璃子さんが戻ったことをお祝いしましょう。」
玲子が給仕に合図をすると、それぞれのグラスにシャンパンが注がれた。
「家族の、再会に。」
旺賢がグラスを掲げ、一同は乾杯した。
旺賢は千智に、家族をひとりずつ紹介した。
千智を見た家族の反応はそれぞれだったが、みな千智に“お帰り”と言ってくれた。
千智は生まれて初めて、豪華なコース料理を口にした。
高級食材を使用した、洒落た料理が次々に提供されたが、緊張で、ほとんど味がしなかった。
マナーが正しいか不安で、向かいに座る玲子の手元を見ながら、おそるおそる食事を進めた。
既に千智としての誕生日は迎え、20歳になっていたが、璃子の誕生日は少し先だと知って、お酒は遠慮した。
話題のほとんどは、佐伯財閥の経営についてだった。
会食が終わると、千智は理人に連れられ、書斎に向かった。
「すっかり大人の女性だな。5歳のころが懐かしい。」
ソファに向かい合って座ると、理人は遠くを見るような目をして言った。
「もっと早くに見つけてやれず、本当にすまなかった。君が璃子だと分かってから、今日まで会わずにいたことも。」
千智は首を振った。
「私も、心の準備をする時間が必要でした。」
そうか、と理人はうなずいた。
「正直なところ、会うのが少し怖くてね。写真を見たときは驚いた。璃子にはもちろんのこと、若いころの美由紀によく似ていたから。」
「その、お母様は…?」
食事の際の重い沈黙を思い出し、千智は恐る恐る聞いた。
「半年前に、亡くなったよ。もともと身体は強くなくてね。長く患っていたんだ。」
美由紀は5年におよぶ闘病生活の末、理人と瑠偉に見守られる中、息を引き取った。
「DNA鑑定で君が娘だと証明されて、嬉しかったが、美由紀を失ったいま、君に会って冷静でいられるか自信がなかった。」
すまない、と言って、理人は目頭を押さえた。
「美由紀を愛していたんだ。生涯、妻は彼女ひとりと決めていた。君は間違いなく、私たちの娘だ。生きているうちに、一目でも会わせたかった。」
涙が幾筋も、理人の頬を伝って流れ落ちた。
肩を震わせる理人を見て、千智の胸は締め付けられた。
実の母である美由紀のことは思い出せなかったが、育ての母である美香を失った千智は、愛する妻を失った理人の気持ちに深く共感した。
たとえ乗り越えたとしても、愛する人を失った悲しみと後悔は、一生消えることは無い。
千智は理人に近づくと、ぎこちなく手を握った。
理人は力強く、千智の手を握り返した。
千智は思った。
“この人に、せめて、失っていた娘を返してあげたい。”
書斎を出ると、廊下に弟の瑠偉が立っていた。
瑠偉は璃子の3歳年下で、今年17歳になるという。
覇気のある理人にはあまり似ておらず、物憂げで繊細な印象の少年だった。
「瑠偉くん。さっきはあまり話せなかったね。突然のことで、きっとお互い戸惑うことも多いけど、これからよろしくね。」
微笑む千智の顔を、瑠偉はじっと見つめた。
無言で見つめられ、千智が戸惑っていると、瑠偉は視線をそらし、何も言わずに歩きだした。
「あ、待って。」
千智が瑠偉を呼び止めようとすると、向かい側から、玲司が歩いてきた。
「待てよ、瑠偉。」
玲司が呼び止めても、瑠偉は振り向かず、そのまま歩き去った。
「玲司さん。」
璃子の5歳年上のいとこである玲司は、会長秘書として、理人のもとで仕事を学んでいるという。
「気楽に接してよ。昔は“お兄ちゃん”って呼んでただろ。」
そう言って微笑むと、玲司は千智に近づき、頭をなでた。
「こんな風に、髪を結ったこともあったな。」
玲司は千智の髪をすくうと、三つ編みにした。
「そうでしたっけ?」
千智はどうしてよいかわからず、あいまいに微笑んだ。
いとことはいえ、15年ぶりに会うにしては、ずいぶん距離が近いように思う。
「そうそう。小さいころの璃子ちゃんは、いつも俺の後をついてきてさ、可愛かったなー。」
玲司は三つ編みを弄ぶ。
「さっきは、つまらなかったでしょ?璃子ちゃん、全然話さなかったね。」
玲司は笑顔だったが、どことなく怖かった。
「緊張してしまって…」
千智は視線をそらした。
玲司は“ふーん”とつぶやくと、三つ編みを引っ張り、千智を引き寄せて耳元で囁いた。
「正直、君が本物かどうかに興味はないよ。佐伯璃子として、役に立ってくれればね。」
玲司が手をはなすと、三つ編みはほどけて、千智の肩にはらりと落ちた。
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