第8話 生立
璃子の情報を募るインターネットサイトに匿名で送られた千智の写真は、サイトの管理会社を通じて、玲子の元に届いた。
玲子は、月島に写真の人物について調べるよう指示した。
月島は調査会社を使って千智について調べた。
報告書によると、千智は奨学金を得て国立のS大学に通う優秀な学生だった。
璃子と生まれ年が同じで、両親はなく、一人暮らしをしており、アルバイトで生計を立てている。
地方出身で、進学を機に上京していた。
母親の林美香は、3年前、当時17歳の千智を残して、交通事故で亡くなっている。享年36歳。
千智の父親は不明。
病院で美香が千智を産んだ記録も見つからなかった。
さらに、美香は千智の出生届を出しておらず、千智には6歳まで戸籍がなかった。
小学校への入学を機に、慈善団体の協力で戸籍を取得したとある。
璃子は5歳で失踪したため、時期が一致していた。
千智の容貌、年齢、経歴は、失踪した璃子と同一人物であることを疑うのに、十分なものだった。
そしてDNA鑑定の結果、会長の娘だと証明されたのだ。
「知りませんでした。6歳まで戸籍がなかったなんて…」
思いもしなかった事実を知り、どう受け止めてよいか分からず、千智は沈黙した。
月島は、千智の様子を気にしつつも言葉をつづけた。
「美香さんは、自宅で一人きりであなたを生み、出生届をださなければならないことを知らなかった、と話したそうです。」
「知らなかった?どういうことでしょうか?」
「美香さんが、児童養護施設で育ったことは、ご存知でしたか?」
「いいえ。知りませんでした。」
はじめて知る事実に、千智はさらにショックを受けた。
「美香さんは生後間もないころに、施設に置き去りにされており、両親が不明なまま育ったようです。適切な支援を受けられずに、施設で育った方は、一般的な社会常識を知らない傾向があるそうです。当時、美香さんの主張は受け入れられ、千智さんの戸籍の発行が認められました。」
確かに、母親の美香は、世間の常識にうといところがあった。
周りの大人たちは、そんな母について、妊娠して家を追い出された、世間知らずの令嬢なのではないか、などと密かに噂していた。
母は美しく、どこか浮世離れした雰囲気があったからだ。
幼い千智は無邪気に母に訊ねたことがある。
「ママのパパとママはどこにいるの?」
母はただ、曖昧に微笑むだけだった。
千智は、母にも両親がいるはずだと、当然のように思いこんでいた。
例え、既に亡くなっていたのだとしても。
両親の顔すら知らずに育ったことなど、想像もしていなかった。
幼い自分の言葉は、母にとってどんなに残酷だったことだろう。
「美香さんは、18歳になる年に突然施設から姿を消し、そのまま戻ってこなかったようです。それまでにも、何度か姿を消すことがあったようで、熱心な捜索は行われませんでした。施設にいられるのは18歳までなので、その年が過ぎると、そのまま放置されたようです。」
月島の説明を聞きながら、千智は涙を流した。
自分は母のことを何も知らなかったのだ。
「私、何も知らなかった…」
ぬぐっても、ぬぐっても、涙はとめどなく溢れる。
苦労して、自分を育ててくれた母。血のつながりさえなかった母。
いったい、何を思っていたのだろう。もう、謝ることさえできない。
「あまりこすると、目が腫れます。」
月島は、目元をぬぐう千智の手を止め、ハンカチを取り出すと、千智に差し出した。
「ありがとうございます。」
ハンカチを受け取り、千智は目元をおさえた。
千智が少し落ち着くのを待って、月島は話を続けた。
「施設を出てから、千智さんの戸籍を取得するまでの7年間、美香さんがどこで何をしていたのか、足取りはつかめていません。千智さんを育てるに至った経緯も、分かっていません。」
月島は言葉を区切ると言った。
「私が知っていることは、以上になります。」
千智は考えた。
7年の間に、母に一体何があったのだろうか。
自分と母はどのようにして出会ったのだろう。
「母は、私の失踪に、関与していたんでしょうか。」
大好きだった母親が、実は誘拐犯だったなんて、信じたくはなかった。
「あまり、思いつめないでください。」
月島は、ソファに置いてあったブランケットを広げると、千智を包んだ。
千智は自分が震えていたことに気がついた。
「美香さんが、あなたを誘拐したと決まったわけではありません。あなたが愛されていたと感じるなら、それも真実のはずです。」
月島はブランケットの上から、千智の手をそっと包んだ。
ストレスと緊張で冷え切っていた手に、月島の手の温もりが伝わってくる。
千智はずっと抑え込んでいた気持ちを打ちあけた。
心の支えだった母の存在が揺らいで、本当はずっと不安だったこと。
自分が璃子かどうか、自信がないこと。
ネットでの写真の拡散や、根も葉もない噂や、見ず知らずの人から向けられる悪意が怖いこと。
嗚咽で途切れ途切れになる千智の言葉に、月島は耳を傾け、慰めながら、そっと傍で寄り添ってくれた。
翌日、目が覚めると千智は寝室のベッドの上だった。
ブランケットにくるまれたまま、布団が掛けられている。
泣き疲れた千智は、そのまま眠ってしまったらしい。
月島が千智をベッドまで運んでくれたのだろう。
手には月島に借りたハンカチを握ったままだった。
鏡で確認すると、ハンカチのおかげか、さほど目は腫れていなかった。
少し冷やせば問題ないだろう。
シャワーを浴びて、朝食をとると、少し頭がはっきりしてきた。
昨日、月島に慰められながら、泣き続けたことを思い、千智は恥ずかしくなった。
月島に借りたハンカチを手洗いし、アイロンをかけ、次に会うときに返そうと決めた。
午後になると、叔母の玲子がスタイリストを伴って、マンションを訪れた。
今夜、佐伯家の邸宅で親族そろっての食事会が行われ、千智は家族と顔を合わせることになっている。
「叔母様、お気遣い感謝します。」
「可愛い姪のためだもの、当然よ。」
玲子は笑顔で千智の手を握り、励ますように優しく肩に手をかけた。
「写真や動画は、業者を雇って削除させているわ。しばらくすれば、騒ぎも納まるはずよ。あまり不安にならないで。」
玲子は千智をはげますと、千智の身支度をするよう、スタイリストに指示をした。
スタイリストの佐原は明るく感じのよい女性だった。
30代後半だというが、20代に見える。
玲子の専属スタイリスト兼ヘアメイク担当として、5年ほど勤めているという。
「好みのスタイルはありますか?」
佐原に聞かれたが、千智は答えられなかった。
髪はいつも、手入れが楽な長さに切りそろえており、簡単に束ねるだけだった。
「わからないので、お任せします。」
佐原は笑顔でうなずいた。
「わかりました。気になることがあれば、何でもおっしゃってください。」
髪を整えられながら、千智は月島に連れられて、ホテルのサロンを訪れたときのことを思い出していた。
魔法にかけられたようだったあの日、着飾った自分を見て、素敵だと微笑んでくれた月島の笑顔に、胸が高鳴った。
「あの、お願いなんですが、」
千智は、鏡の中の佐原の目を見つめて言った。
「メイクの仕方を、教えてもらえませんか?」
今まで、全くといっていいほど、千智は化粧をしてこなかった。
着飾り、注目を集めることを避けてきたからだ。
しかし、今は、綺麗になりたいと感じていた。
「もちろんです。」
佐原は嬉しそうに快諾し、手順を丁寧に解説しながら、千智にメイクをしてくれた。
佐原の腕は素晴らしく、準備を終えた千智は、完璧な令嬢の姿になっていた。
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