第7話 不安
自宅で仕事をしていた月島は、時計が昼の12時を回っていることに気がついた。
昼食を兼ねて人に会うため、月島は家を出た。
千智を抱き上げ、記者を退けて車に乗った月島の動画は、かなり拡散していた。
しかし、普段は上げている髪を下ろし、ラフな服装で眼鏡をかけ、マスクまでした月島に、気づく人間はいなかった。
普段からSNSなどをあまり利用しない月島は、当日の出勤中に、友人からの連絡で、千智と自分の写真が拡散されていることを知った。
慌てて千智を送迎している運転手の篠山に連絡をとると、大学の最寄り駅まで送ったという。
駆けつけたときには既に、千智は記者に囲まれ、逃れようともがいていた。
周囲の学生たちは皆、ただカメラを向けてその様子を撮影していた。
動画が拡散し、月島が佐伯ホールディングスの社員だと知られると、玲子は月島を呼び出した。
「派手なことをしたわね。“
玲子は半分面白がるように言った。
「あなた目当ての女性がエントランスをうろつくせいで、警備員まで増やしたわ。」
「申し訳ありません。」
頭を下げる月島に、玲子は首を振った。
「気づいて駆けつけたことは評価するわ。璃子を助けたこと、会長もあなたには感謝している。けど、騒ぎが納まるまでしばらく自宅で謹慎よ。悪く思わないで。」
「わかりました。寛大な処遇に感謝します。」
月島は飲み屋街の一角にある雑居ビルの階段を上り、2階にある洒落たバーの前で立ち止まった。
CLOSEの看板を無視して扉を開くと、ドアにつけられたベルが鳴った。
「すみません、営業は18時からで…」
音を聞いて、顔をだした店主は、月島を見て首をかしげた。
「もしかして、月島か?」
月島はマスクを取って答えた。
「昼食を食べたいです。」
「急だなー。」
仕方ないなと笑いながら、店主の有本
「で、どういうことだ?」
カウンター席に座る月島の前に、自慢のパスタを置くと、有本は興味深げな目をして言った。
有本は月島の2歳年上で、任期自衛官時代、苦楽をともにした戦友だ。
任期満了後、月島は大学に戻り就職し、有本は自分の店を開いたが、ふたりの固い友情は続いていた。
あの日、SNS上で月島と千智の写真が拡散されていることを、月島に知らせたのは有本だった。
「すっかり有名人だな、“
有本はからかうように笑って言った。
「あの日は、知らせて頂いてありがとうございました。」
「知った顔が、美女をエスコートしていて驚いたよ。いつ口説いたんだ?」
「からかわないでください。」
軽口を言う有村を制したのち、月島はゴシップ記者から千智を救うに至った経緯を説明した。
「…なるほど。」
説明を聞き終え、うなずくと、有本は空になった月島のグラスに水を注ぎながら言った。
「会長の娘に近づけるとは、運がいいな。でも、その子は、本当に佐伯璃子で間違いないのか?15年も前に海外で行方不明になった子どもが、国内で育っていました、なんて普通は信じない。」
「DNA鑑定の結果、会長の娘であることは確かです。少なくとも、会長は確信しているようです。」
そうでなければ、千智にマンションや車、クレジットカードまで与えないだろう。
「経歴も一致するし、何より、似ているんです。」
「小さいころの写真に?」
「はい。それに、会長夫人にも。」
騒ぎから数日後、叔母の玲子から、千智を佐伯家の食事会へ招待すると連絡があった。
親族一同、璃子に会えることを、楽しみしているという。
“家族に会えるんだ。でも…”
不安と期待を同時に感じながら、千智は考えていた。
本当に、自分は、佐伯璃子なのだろうか。
家族との対面を間近に控えて、心の片隅で感じていた疑問は、無視できないものになっていた。
佐伯璃子が失踪したのは、海外にある佐伯家所有のプライベートヴィラだった。
当時、5歳の璃子はシッターが目を離した隙に姿を消した。
シッターは同行していた親戚の子どもも合わせて3人の子供の世話をしており、璃子がいなくなったことにしばらく気がつかなかった。
その日のうちに、大使館を通じて現地警察に捜索願が出され、佐伯家の私財を投じた大規模な捜査が行われたが、目撃情報もなく、璃子は見つからなかった。
誘拐犯を名乗る人物が複数人現れたが、どれも身代金詐欺であったり、精神鑑定の結果、妄想癖が認められたりで、真犯人の発見には至らなかった。
海で溺れて流された可能性が高いとみられ、捜査は打ち切られたが、璃子の両親はあきらめず、報奨金を設けて独自に捜索を続けた。
千智は、母の遺骨を前にして考えた。
母親の美香は、千智が5歳のころ、まだ24歳だったはずだ。
苦労して千智を育ててくれた美香が、海外から璃子を誘拐することなど、到底できたはずがない。
たとえ、美香以外の誰かに誘拐され、美香に預けられたのだとしても、なぜ美香は、血のつながりのない千智を苦労して育ててくれたのだろうか。
美香は千智が璃子かもしれないことを、知らなかったはずだ。
知っていたなら、佐伯家に自分を連れて行っただろう。
そうすれば、相当額のお金を受け取れただろうし、美香なら、千智が不自由ない生活をすることを望んでくれたはずだ。
それとも、母には、千智の知らない別の顔でもあったというのだろうか。
千智が覚えている限りで、最初の記憶は、部屋でひとり、母の帰りを待っていたことだ。
保育所などにも入所していなかったので、小学校入学以前の記憶はあいまいだ。
小さいころ、擦り切れるまで持っていたぬいぐるみは、黄色いキリンだったが、写真の璃子が抱えているのは、見覚えのないピンクの熊のぬいぐるみだった。
璃子にまつわることは、何も思い出すことができなかった。
たとえ、誘拐を経験したとしても、5歳の子供は、こんなに何もかもを忘れてしまうものなのだろうか。
“わからないことばかり…”
一人で調べるには限界があった。
事情を知っている人に、話を聞きたかった。
千智は勇気をだして、月島に連絡をすることにした。
昼食を終えた月島は、今度は夜に飲みに行くと有本に約束し、バーを後にした。
スマホで仕事のメールを確認しながら歩いていると、千智からメッセージが入った。
“こんにちは。千智です。会ってお話したいことがあります。お時間をいただけませんか?”
月島は少し考えて、返信した。
“明日、仕事後に伺います。”
その夜、月島を待ちながら、千智は緊張していた。
助け出された日以来、月島に会うのは初めてだ。
あの日のことを思い出すたび、顔が赤くなる。
平常心、平常心、と唱えながら、千智は無意識に何度も前髪を整えた。
月島はスーツ姿ではなく、カジュアルな服装で現れた。
いつも上げている髪は下ろされ、眼鏡もかけている。
しかし、ラフな服装や眼鏡もとても似合っていて、普段とは異なる魅力があった。
「いつもと雰囲気が違って、マスクをとるまで、月島さんだと分からなかったです。」
千智が言うと、月島は笑いながら言った。
「エントランスでも、呼び止められました。」
マンションのレセプションにいるコンシェルジュは、出入りする人物の確認をしている。
いつもどおり、挨拶をしつつ通り過ぎようとした月島は、不審に思ったコンシェルジュに呼び止められたらしい。
「あの日は助けて頂いてありがとうございました。私のせいで、困っていませんか?ご迷惑をおかけしてすみません。」
月島の服装が異なるのは、人目をごまかすためだと思い当たり、千智は頭を下げようとした。
しかし、月島はそんな千智をとめて、首を振った。
「千智さんのせいではありません。休みの日はもともとこんな服装だし、街を歩いても、誰も私と気づきません。困っていることは無いですよ。」
お茶を淹れ、リビングのソファで月島と向き合いながら、千智は話しはじめた。
「私、自分のことを知りたいんです。ここ数日、失踪当時のことを調べて、考えてみたんですが、わからなくて。」
璃子としての記憶を何も思い出せないことを、千智は月島に打ち明けた。
「カフェで話した日、月島さんは、言いましたよね?私の過去は、失踪事件と一致する点が多いって。」
「はい。」
「私の過去について、知っていることがあるなら、教えて頂けませんか。」
月島は少し考えてから、千智の目を見て言った。
「わかりました。私が知っていることをお話します。」
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