第6話 理不尽
高校生時代、千智は特待生として、有名な女子高に通っていた。
その高校では、成績を保ちさえすれば、授業料だけでなく、課外活動費や学校納付金など様々な費用が免除された。
学校は家から電車で片道2時間ほどかかった。
千智は目を引く美少女だったので、入学してすぐに、一番目立つグループから声をかけられ、友人の輪に招き入れられた。
彼女たちはみな、裕福な家庭の育ちだった。
千智は自分の家が母子家庭であることや、とても貧しいことを隠していた。
友人たちが時折、貧しさを差別する発言をしていたからだ。
中学生までずっとイジメを受けて孤立していた千智にとって、はじめてできた仲の良い友人は、失いがたいものだった。
放課後、帰宅の準備をする千智に、友人グループのひとりが声をかけた。
「千智、今日の放課後、みんなで新しくできたカフェに行くんだけど、一緒に行かない?」
「ごめん、今日は家庭教師の先生が来る日だから。」
「そっか。じゃあ、また今度ね。」
「うん。誘ってくれて、ありがとう。」
遊ぶお金のない千智は、家が厳しく、週に3日は家庭教師が来るのだと嘘をついて誘いを断っていた。
家庭教師など本当はおらず、千智は一人で勉強をしていたが、成績優秀な千智を誰も疑わなかった。
千智はこっそりアルバイトをし、時々友人たちと遊びに行った。
友人たちがその様子をSNSに投稿すると、美しい千智は近隣の高校生の間で、ちょっとした有名人になった。
学年が上がると、千智は憧れの先輩として、下級生に知られるようになった。
はじめて周りから注がれる羨望のまなざしに、千智は少し舞い上がっていた。
それが、悪意を呼ぶことになるとも知らず。
その日、通学の電車の中で、千智は見知らぬ男子生徒に声をかけられた。
男子生徒は、背が高く、ジャージ姿で、近くの高校の名前が入った、部活用のスポーツバッグを持っていた。
「N女学院の林千智ちゃん、だよね?」
「そうですけど…」
男は許可も求めす千智の隣に座ると、自信ありげに微笑んだ。
とても近いが、隅の席に座っていたため、距離をおくこともできない。
「SNSで千智ちゃんのことを知ってさ、いいなって思ってたんだよね。俺たち、電車で何度か目が合ってたよね?」
千智に覚えはなかった。
男子生徒の脚が千智の脚に触れ、居心地が悪い。
「そうでしたっけ?すみません、気がつきませんでした。」
「あはは、固いなー。俺このあと暇なんだよね。ふたりで遊ばない?」
手を握られそうになり、思わず千智は振り払った。千智の爪が、男子生徒の手をひっかいた。
「いってえ…」
「あ、ごめんなさい。でも、」
「は?聞こえねーけど。もっと誠意をもって謝罪しろよ。」
男子生徒はいきなり低い声ですごむと、千智の腕を乱暴につかみ、停車駅で引きずり降ろした。
そのまま改札を抜ける。
怖くなった千智はされるがままになった。
千智は、駅前のカラオケに連れ込まれた。
個室のソファに乱暴に押しやられる。
入口のドアの前に立って、男子生徒は電話をかけはじめた。
「あ、俺。今いつものカラオケなんだけどさ、誰といると思う?N女の林千智だよ。嘘じゃねーって…」
しばらくすると、数人の男たちが個室に入ってきた。
「え、N女の制服だし、本物じゃん。」
「まじ?可愛いな。」
「じゃ、まずドリンクオーダーね。お前らのおごりな。」
「多めに頼んどこうぜ。これから汗かくし。」
「お前、ゲスすぎ。」
男たちはゲラゲラと笑った。
「千智ちゃんさぁ、お高くとまりすぎ。ここ、俺の親の店なんだよね。誰も助けてくれないよ?」
千智は男子生徒のバッグに入っていた高校の名前と、ある噂を思い出した。
その高校には、多数の従業員を抱える地元有力企業の社長の息子がおり、親の威をかりて、派手に遊んでいるというものだった。
男子生徒は千智のスカートに手を入れ、太ももをなでた。
全身から血の気が引いていくような恐怖を感じ、千智は必死になった。
“何とかして、逃げなくちゃ”
ドリンクを持ってきた店員がドアを開くと、千智は反射的にドアに向かって走った。
焦って千智を避けようとした店員がバランスを崩し、お盆にのったグラスが床に落ちた。
グラスが割れ、ドリンクが飛び散る。
場が混乱したすきに、千智はドアをすり抜けた。
入口で呼び止める店員も無視し、千智は走り続けた。
駅の改札を抜け、止まっていた電車に駆け込むと、音を立ててドアがしまった。
追いかけてくる人の姿はない。
千智は荒く息をし、床にへたりこんだ。
その日の夜、様子のおかしい千智を心配する母親の美香に、千智は何があったかを話した。
ふたりは警察に相談したが、具体的な被害も証拠もなく、取り合ってはくれなかった。
次の日、高校に登校すると、いつもと様子が違った。
どこから知られたのか、千智が母子家庭で育ったことや、母親が工場で働いていることなど、千智の家柄と貧しさが、嘲笑を持って噂されていた。
そして、他校の男子高校生たちと、千智が遊んでいるとも。
「ねぇ、これ、どういうこと?」
友人に突きつけられたスマートフォンの画面には、昨日の男子高校生とふたりでカラオケに入っていく、千智の姿が映っていた。
「家庭教師の日なんじゃなかったの?私の誘いを断って、私の彼氏とふたりで何してたの?」
千智は戸惑った。
昨日の男子高校生が、友人の彼氏だとは知らなかった。
「彼に聞いたら、千智が誘ってきたって。しかも、彼が友達を呼んだら、気に入らないって怒って、グラスを割ったらしいじゃん。」
「違うよ。電車で声をかけられて…」
「彼が無理矢理誘ったって言いたいの?」
「…」
「だいたい、お店に迷惑かけるとか最低だよ。千智のこと、友達だって彼に話してたのに、すごく恥ずかしい。」
本当のことを言えずに千智が俯くと、別の友人が言った。
「やめなよ。可哀そうだよ。」
前からなんとなく、千智のことを気に入っていない様子だった彼女は、怒っている友人をなだめると、千智を見て憐れむように言った。
「ほら、やっぱり家が貧乏だから、モラルがないんだよ。」
友人だちが馬鹿にしたようにくすくすと笑った。
千智の家が貧しいことは、SNSで広まっていた。
SNSで千智を見つけた中学時代の同級生が、拡散させたようだった。
千智は友人たちの輪から外され、孤立した。
学校では、千智が友人の彼氏に手を出そうとし、断られると暴れてグラスを割ったという噂が広まった。
数日後、美香は勤めていた工場を突然解雇された。
理由は説明されなかった。
例の男子高校生の親から、工場長に、圧力がかかったのだろう。
美香を雇ってくれる場所はなかなか見つからず、生活は困窮した。
やっと見つけた仕事は、前よりも賃金が低く、過酷なクリーニング工場での勤務だった。
「お母さん、引っ越そう。私、学校をやめて働くよ。」
美香を心配して、千智は提案したが、美香は反対した。
「だめよ。このまま学校に通って、進学して。」
転校をすれば、特待生として、学費その他の費用の免除を受けることは難しくなる。
今の高校を辞めれば、働くほかなかった。
「でも、このままじゃ…」
「千智は勉強ができるから、きっといい大学に入れる。そうすれば、いい会社にも入れるわ。私にできなかったことを、実現して、幸せになってほしいの。」
美香は荒れた手で千智の手を握って言った。
「大丈夫、あと2年くらい、へっちゃらよ。」
千智は目立つことを極力避け、人目を避けて過ごすようになった。
電車では、マスクをし、帽子をかぶって、必ず車掌室のすぐそばの席に座った。
そして、孤独な時間を埋めるように、勉強ばかりして過ごした。
奨学金を得て、いい大学に入り、母とふたりで町を出ることが、千智の目標になった。
学年トップの成績で迎えた高校2年生の冬、期末試験の休み時間に、千智は教師に呼び出された。
「林、さっき学校に連絡があったんだが、実は…」
教師は千智をつれて職員室に入ると、母親の美香が交通事故に遭ったと告げた。
美香は前日から、昔の知り合いに会うと言って家を空けていた。
担任の教師に連れられて、千智は遠く離れた警察署に向かった。
ベッドに横たわる美香は、既に冷たくなっていた。
検察官が事故について語っていたが、千智の耳には入ってこなかった。
千智は膝をつき、ただ茫然と傷ついた美香の亡骸を見つめた。
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