第5話 拡散
叔母の玲子と会った翌日、千智は最寄り駅まで運転手の篠山に送ってもらい、駅から大学まで歩くことにした。
これ以上噂が広まらないようにしたかったからだ。
数日経てば、みんな興味を失うだろうと思っていた。
しかし、何か様子がおかしい。
道行く人が皆、スマートフォンを片手に千智を盗み見てくる。
昨日は、ここまであからさまな視線を感じることはなかった。
騒ぎが、大きくなっている気がする。
ポケットのスマートフォンが鳴り、取り出すと、西村からメッセージが届いていた。
“林さん、大丈夫?”
どういう意味だろう。
疑問に思いながら、メッセージに添付されていたリンクをタップすると、信じられないものが目に飛び込んできた。
「なに、これ…」
SNS上では、ホテルで月島にエスコートされている千智の写真や、大学の正門で月島とともに車に乗り込む千智の写真が、佐伯璃子の失踪当時の新聞記事とともに拡散されていた。
“行方不明の令嬢か?”
“財閥令嬢、正体を隠してS大学に通う”
などの見出しとともに、様々な憶測が飛び交っている。
訳も分からず、千智は慌てて西村に電話をかけた。
「西村くん、何が起きてるの?」
「昨日の夜から写真が拡散されはじめたみたいで、今朝には検索ランキングトップになってるよ。」
最初に投稿されたのは、佐伯グループのホテルで月島にエスコートされる千智の写真だったらしい。
千智を人気女優と間違えた投稿者は、芸能人カップルのお忍びデートではないかとコメントした。
しかし、当の女優ではないことが分かると、美しい男女の正体に注目が集まった。
ふたりがオーナー専用ラウンジを利用していたことがわかり、女性が、失踪した佐伯財閥の一人娘である佐伯璃子に似ている、と指摘するコメントが徐々に広がると、様々な憶測が飛び交った。
盛り上がったネット民は、よく似た男が大学に来ていた、などの目撃情報や、ふたりを撮影していた大学生の投稿から、写真の美女がS大学生であることまで特定した。
きっと2年の林千智だと気づいたS大学生たちの間で、噂は一気に広まった。
大学の入口にはゴシップ記者たちが待ち構えていた。
千智はとっさに踵を返そうとしたが、記者の一人が千智に気づいた。
あっという間に取り囲まれ、フラッシュがたかれる。
次々に向けられるレコーダーと嵐のような質問から逃れようとして、千智はパニックになった。
避けようとすればするほど、記者は追いかけてくる。
息が苦しくなり、眩暈がしてくる。
“誰か助けて!”
そう思った瞬間、記者を掻き分け、力強い両腕が千智を抱き寄せた。
「質問にはこの場でお答えできません。失礼します。」
「あ!あなたは写真の男性ですよね?」
月島は千智を抱き上げると、群がる記者を退けて車に乗り込んだ。
「月島さん…?」
月島の腕の中で千智は、心配そうにのぞき込むその顔をぼんやり見上げた。
「遅くなって申し訳ありません。もう大丈夫です。」
千智は安心すると、急に気が遠くなり、意識を手放した。
気が付くと、千智はマンションのベッドの上だった。
体を起こして、部屋を見渡すと、傍らのソファにスーツの上着とネクタイが掛けてあった。
ドアがノックされ、Yシャツ姿の月島が入ってきた。
「お目覚めですね。」
千智が起きていることを確かめると、月島は持ってきたミネラルウォーターのボトルとグラスをサイドテーブルに置き、ソファに腰掛けた。
「パニックによる軽い酸欠で気を失われたようです。気分はどうですか?」
月島はグラスに水を注いだ。
腕まくりしたシャツから延びる腕は逞しく、いつもきっちりと閉じられていた襟はくつろげられ、首元からは鎖骨がのぞいている。
抱き寄せられたときの、厚い胸板を思い出し、千智は頬が赤くなるのを感じた。
「大丈夫です。ありがとうございます。」
差し出されたグラスを受け取って水を飲む。
月島は千智を、じっと見つめた。
「少し頬が赤いですね。」
頬にかかる髪をかき上げるよう耳元に触れられ、千智の体温はさらに上がった。
美しい顔がゆっくりと近づいてきて、額が額に触れる。
鼓動が大きく跳ね、心臓がうるさく高鳴った。
近すぎて、こちらの息遣いまで伝わってしまいそうだ。
千智は息を止め、ぎゅっと目をつぶった。
「少し熱がありそうなので、測りましょう。」
月島は、体温計を買いに行くと言って、部屋を出て行った。
千智は顔を覆ってベッドに突っ伏した。
記者に取り囲まれた千智を救い出す月島の動画は、SNSで一気に拡散した。
月島は令嬢を守る“
美しいマスクと千智を軽々抱き上げる逞しい姿に、女性たちは夢中になり、S大学卒、佐伯ホールディングス入社の経歴がつきとめられると、人気は加速した。
佐伯ホールディングス本社ビルのエントランスには、月島を一目ようと、女性ファンがうろつき、警備員が増員された。
月島の人気とともに、佐伯璃子の噂も盛り上がるばかりだった。
失踪事件の経緯を追いかけるものや、月島とのロマンスを噂するもの。
失踪事件は佐伯家の狂言であり、手におえないこどもだった璃子を海外追放していただけで、月島はわがままな璃子のお守りをさせられている、などと、根も葉もない話がネット上を駆け巡った。
千智の同級生の中には、人付き合いが苦手だった千智について、人を見下して、付き合おうとしない人物だったなどと証言する者もいた。
西村は千智を心配して連絡をくれた。
「みんな、林さんのことをよく知らないだけだから。気にしないで。」
「うん。ありがとう。西村君。」
「大学には来れそう?」
「騒ぎが落ち着くまで、しばらく休むことになると思う。」
「そっか。大丈夫?俺にできることがあれば力になるよ。アルバイトのこととか。講義のノートもとっておくし。」
「本当にありがとう。必ずお礼をするから。」
「いいよ。気にしないで。」
「でも…」
「林さん、昔、俺のこと助けてくれたじゃん。」
「そんなことあった?」
「あったよ。やっぱり覚えてないか。まぁ、そのときのお礼ってことで。」
噂について、深くは詮索してこない西村に感謝しながら、千智は電話を切った。
西村は力になると言ってくれたが、アルバイトは辞めるしかないだろう。
幸い、もう生活に困ることはなさそうだ。
DNA鑑定の結果を知った日から数日で、千智の生活はすっかり様変わりしてしまった。
千智はリビングの大きなソファの隅にうずくまり、クッションを抱いて、部屋を見渡した。
“本当に、豪華な部屋…”
母と暮らした小さなアパートや、一人暮らししていた古いアパートとは、似ても似つかない。
一人暮らしのアパートは解約してしまい、もう戻る場所はなかった。
きっとどこに行っても、普通の大学生の林千智に戻ることはできない。
“これから、どうなるんだろう…”
千智はお金に苦労して生きてきた。
貧しさから抜け出せることは、素直に嬉しい。
令嬢としての人生は恵まれているはずだ。
しかし、佐伯璃子として生きることは、千智が避け続けてきた人の視線を、一身に浴びることでもある。
この先、今回のように盗撮され、ネットに勝手に写真を上げられることや、根も葉もない噂を立てられることは避けられないだろう。
例えそれが、ネガティブなものではなく、賞賛や人気だったとしても、好意が悪意に転じるのは一瞬だ。
千智は不安を押し殺すように強く自分の肩を抱いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます