第4話 ハイヒール
千智は月島に連れられ、佐伯グループが経営するホテルを訪れた。
叔母である、佐伯ホールディングス副会長の、佐伯玲子と会うためだ。
月島に案内されたのは、ホテルのメイクアップサロンだった。
「ここで、副会長と会うんですか?」
佐伯ホールディングスの副会長ともなれば、忙しいことは必須。
時間がなくてメイクアップ中の副会長と話をするのかもしれない。
千智が想像していると、その思考を読んだかのように、月島が言った。
「違いますよ。千智さんの準備をしていただきます。」
たちまち笑顔のスタッフに取り囲まれ、千智はされるがままになった。
シャンプー&ブローされた髪はつややかに整えられ、ネイルはケアされ、完璧なメイクが施された。
月島が選んだ華やかな服とアクセサリーを身に着けると、鏡の中の自分は、まるで、自分ではないように見えた。
“ドラマの中の、令嬢みたい”
マンションのクローゼットに用意された、“THE・令嬢”な服を見たときは、気後れしてしまったが、華やかなファッションに、憧れないはずがない。
“すごい。メイクってすごい。”
フィッティングルームを出ると、準備を終えた千智をみて、月島は満足げに微笑んだ。
「驚きました。とても素敵ですよ。」
露出を抑えた淡いブルーグレーのタイトワンピースとシルバーのアクセサリーは千智によく似合い、清楚な魅力を引き立てていた。
月島は千智をソファに座るよう促すと、箱から美しい靴を取り出した。
「素敵な靴…」
千智は感嘆した。
鮮やかなブルーサテンのハイヒールパンプスには、クリスタルでできた華やかなバックルがついている。
「足をどうぞ。」
月島はひざまずくと、千智に靴を履かせてくれた。
男の人に、こんな風にされるのは初めてだ。
迎えに来た王子様に、ガラスの靴を履かせてもらうとき、シンデレラはこんな気持ちだったのかもしれない。
どきどきしながら、千智は生まれて初めてハイヒールに足をとおした。
「では、参りましょう。」
「はい。」
自然に差し出された月島の腕に、戸惑いながらも手をかける。
美しい顔から想像していたよりも、硬くてたくましい腕だ。
月島の体温と、ほのかなコロンの香りを感じ、千智は自分の心臓の音がどんどん大きくなるのを感じた。
“いい香りがして、緊張する…”
中学・高校と勉強ばかりしていた千智にとって、恋愛は未知の領域だった。
男性の好意を感じることも、恋人のいる同級生を羨ましく思うこともあったが、千智は自分を妬む女性の悪意が怖かった。
自分の身なりや貧しい家庭環境に、引け目も感じていた。
母が亡くなり、大学に入ってからも、人と一定の距離を置く癖は抜けず、男性に触れ、こんなに近い距離で歩くのは初めてだった。
“どうか、意識していること、月島さんに気付かれませんように。”
祈りながら、千智はぎこちなく歩みを進めた。
月島にエスコートされ向った先は、ホテルのラウンジだった。
きらびやかなシャンデリアと笑顔のスタッフに迎えられ、奥の個室に通された。
“うわぁ、すごい!”
広々とした個室には豪華な花が活けられ、大きな窓の外には海が広がっていた。午後の陽光に照らされて、水面がキラキラと輝いている。
眺望に向けて、部屋の中央には、モダンで大きなソファセットが置かれていた。
広いソファに腰を下ろすと、スタッフに飲み物を聞かれた。
紅茶を頼んだところ、紅茶だけでも20種類以上あるらしい。
どれがいいかよくわからず、千智が迷っていると、月島がお勧めの紅茶を選んでくれた。
「先ほどは、失礼しました。」
スタッフが退室し、ふたりきりになるなり、月島は申し訳なさそうに言った。
「ヒールの靴には慣れていない様子だったので、気を遣ったつもりだったのですが。」
千智は一瞬ぽかんとしたが、すぐに気がついて赤くなった。
腕を組んで歩いたことを言っているのだ。
「私のせいで、よけいに緊張させてしまったようで、」
「いいえ、大丈夫です!」
千智は月島の言葉を遮るように否定した。
自分の心臓の音が聞こえていたのかもしれない。
恥ずかしくて月島の顔を見ることができなくなった千智は、窓の外に視線を泳がせながら、話題を変えるように言った。
「素敵な眺めですね。海が綺麗です。」
「海が好きなんですか?」
「はい。海には思い出があるんです。」
ふたりはしばらく、無言で海を眺めた。
沈黙を破るようにドアがノックされ、スタッフが飲み物を運んできた。
ティーカップが置かれ、紅茶が注がれると、とろけるように甘く繊細な香りが広がった。
“すごく、いい香り…”
少し冷めるのを待って、口にすると、甘い香りに反してすっきりとした爽やかな味わいが口を満たした。
「…美味しい。」
千智は思わず口にした。
紅茶の味が、こんなに違うなんて知らなかった。
千智は初めて口にする高級な紅茶の味に感動した。
「お待たせしたわね。会いたかったわ。どうぞ、おかけになって。」
部屋に入るなり、佐伯玲子は嬉しそうな笑顔を浮かべ、立ち上がった千智と月島に座るよう促した。
玲子はショートボブをすっきりとまとめ、口角の上がった華やかな笑顔が魅力的な女性だった。
年齢を感じさせない気品のあるいでたちは、さすがは財閥一族というところか。
玲子は美しい脚を優雅に組んでソファに腰掛けると、運ばれてきた紅茶を一口飲み、千智を見つめて微笑んだ。
「はじめまして、林千智です。」
千智は丁寧にお辞儀をした。
「月島さんから、お部屋も車も、そのほか全て、副会長が手配してくださったと聞きました。ありがとうございます。」
「遠慮しないで、叔母と呼んでね。当然のことをしたまでよ。あなたは佐伯家の一員ですもの。」
「本当にありがとうございます。…叔母様。」
玲子は満足げにうなずくと言葉を続けた。
「今日は来ることができなかったけれど、あなたの父親の理人も、本当は、早く会いたがっているのよ。ねえ、月島?」
玲子に促されて、月島がうなずく。
「会長はお忙しい方ですので。しかし璃子様がお戻りになったと聞いて、とても喜んでいらっしゃいます。近いうちに、夕食の席を設けられる予定です。」
「それまでに、あなたも、佐伯璃子と名乗ることに慣れなきゃ。ね?」
玲子は明るくからかうような口ぶりだったが、千智は一瞬ひやりとした。
「あなたが立派に成長していて、理人も喜ぶはずよ。S大学に通っているのよね?私も理人も含めて、佐伯家はみんな、S大学の出身なの。」
「存じています。実は私、叔母様と同じ学科を専攻しています。」
「後輩だったのね。嬉しいわ。月島もS大学の出身よ。」
「そうだったんですね!」
しばらく談笑しながら、千智は家族と親族について知っていった。
佐伯ホールディングスは、璃子の祖父であり、現名誉会長の佐伯
旺賢と妻の冬子にはふたりの子供がおり、璃子の父である長男の理人が会長を、妹の玲子が副会長を務めている。
理人と妻の美由紀には、娘の璃子だけではなく、息子の
玲子には婿養子の夫である
1時間ほど話すと、玲子は腕時計を確認して言った。
「もう時間ね。月島、璃子さんを送って差し上げて。」
「はい。お車までお連れします。」
月島に手を取られ、千智は席を立った。
「次は親族そろって会いましょう。」
「はい、楽しみにしています。」
千智は一礼をして玲子と別れた。
ホテルのエントランスに着くと、既にタクシーが待機していた。
「今日は、ありがとうございました。月島先輩。」
「可愛い後輩の、お役に立てて光栄です。」
冗談めかした受け答えに、楽しそうに笑いながら、千智は車に乗った。
車の座席には、ホテルのロゴマーク入りの、小さな手提げ袋が置いてあった。
疑問に思った千智は窓の外の月島を見上げた。
「ささやかですが、お土産です。」
月島は笑顔で答えると、運転手に出発するよう合図した。
「あの、ありがとうございます!」
お礼を言うと同時に、車が発車した。
遠ざかる月島の姿がみえなくなるまで、千智は見つめ続けた。
お土産だと言われた包みを開くと、中には箱入りの紅茶が入っていた。
“これって…”
ラウンジで飲んだ銘柄のようだ。
千智が“美味しい”と言った一言を、覚えてくれていたのかもしれない。
マンションに着くと、アパートから持ち出した荷物がリビングに運び込まれており、母の遺骨は、ローテーブルの上に置かれていた。
荷物を開き、マグカップを2つ取り出す。
母とふたりで買った、お気に入りのマグカップだった。
片方は母の形見になってしまったけれど。
お土産の紅茶を2杯淹れ、一杯を母の遺骨の前に置く。
「お母さん、お母さんは私の、本当のお母さんじゃなかったの?どうして、私を育ててくれたの?」
自分は佐伯璃子なのだと言われるたび、唯一の肉親で心の支えだった美香の存在は、正体の分からない影のように揺らいだ。
物言わぬ遺骨を前に、千智は物思いにふけった。
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