第3話 スマートフォン

翌日、大学ではすっかり噂が広まっていた。


“千智がどこかの御曹司か、モデルか、俳優と付き合っていて、同棲までしている。”


とか、


“その相手が、高級車で千智を送り迎えしている。”


とか何とか。


被っているキャップをさらに目深に被って、千智は人目を避けた。


緊張で疲れていたのか、慣れない部屋にも関わらず、昨夜はぐっすり眠り、今朝はあやうく講義に遅刻するところだった。


アパートの一室くらいある広い浴室と、ふかふかのキングサイズベッドのせいかもしれない。


迎えに来た運転手の電話で目覚め、慌ててマンションを出たのだった。






昼休み、千智は人通りの少ない校舎裏のベンチで一人、昼食のサンドイッチを食べていた。


「みーんな、林さんの噂をしてるよ。聞いた?」


隣に座り、声をかけてきた男子学生は、同じ学部で同学年の西村だった。


西村とは偶然アルバイト先が同じで、たまに話をするようになった。


人懐っこくて、友達が多そうなタイプなのに、千智が一人でいると、ふらっと現れる。


西村はなぜか、千智を見つけるのが上手だった。


「知ってる。何か用事?」


「午後のバイトのシフト、できれば変わってほしくて。」


「ごめん。今日は無理。」


「噂の彼氏と会うの?」


「彼氏じゃないよ。」


♪~、♪~、♪~、


スマートフォンの着信音が鳴り、慌てて取り出すと、電話は月島からだった。


西村の手前、応答するか迷っていると、着信が切れた。


「え?スマホ!?」


西村が千智の手元を指さす。


「買ったの?ガラケーやめたんだ?じゃあ、トークアプリのID教えてよ。」


「できない。」


「…俺、拒否されてる?」


西村が傷ついた顔をする。


「そうじゃなくて、その…使い方が、わからない…」


千智は恥ずかしくなってうつむいた。


高価なスマートフォンを買うことができず、千智はずっとメールと電話のみのガラケーを使っていた。


だから昨日、月島から最新機種のスマートフォンを渡されたときも、使い方が分からない、とは言えなかった。


「…よければ、教えようか?」


西村は丁寧にスマートフォンの使い方を教え、トークアプリの設定をしてくれた。


連絡先を交換すると、トーク画面には“ひじり”と表示された。


西村の名前がひじりであることを、千智は初めて知った。


アイコンはつぶらな瞳をした小型犬だった。


「アイコン可愛いね。ポメラニアン?」


「そうそう、可愛いだろー。実家で飼ってるんだ。」


「名前は?」


「ブルドーザー。」


「ブルドーザー?!何で?」


「実家が建設業やっててさ、弟がつけたんだよね。なんか強そうな名前にしたかったらしい。」


「確かに、強そう。」


「普段は、ブルって呼んでるけどね。」


笑う西村につられて、千智も笑った。


入れておくと便利なアプリや、西村がプレイしているゲームアプリなどの話をし、スマホの設定を終えると、西村は千智の頭の上からつま先まで、遠慮がちに眺めながら言った。


「…あのさ、林さんの今日の服って、全部ブランドものだよね?あの噂、どこまで本当なの?」






昨夜は月島に促されるまま、マンションに泊まった。


生活に必要なものは何でもそろっていたし、どれも高級品だった。


分厚いバスタオル、美容ブランドのドライヤー、高級化粧品、シルクのパジャマまで。


“まるでお姫様みたい。いや、令嬢か。財閥令嬢…。”


ふわふわした気持ちで眠りにつき、今朝、教えられていたクローゼットの扉を開くと、想像していたよりも10倍は大きい部屋に、“THE・令嬢”といった雰囲気の華やかな服が、ずらりと用意されていた。


地味な服装だった自分が、突然こんな服で大学に行ったら、目立つに違いない。


昨日着ていた服はクリーニングボックスに入れてしまい、業者に回収された後だった。


早く出発しないと講義に遅れてしまう。


祈るような気持ちでクローゼットを漁ると、シンプルなロゴTシャツとデニムを見つけた。


これならよさそうだ。


髪を整える時間がないので、キャップも被った。


シューズボックスを開き、白いスニーカーも見つけた。


一見して、いたってシンプルな服装のはずだった。


ブランドものに疎い千智は、まったく気づいていなかった。






千智は迷った。


“どうしよう、西村くんになら、話してもいいかな?でも西村くんは友達も多そうだし、噂が広まって、これ以上注目されるのは嫌だ。”


本人に悪気がなくても、人の口をふさぐことは難しいことを、千智は嫌というほど知っていた。


「あの、誰にも言わないでほしいんだけど、」


「うん。」


「私、母子家庭で育って、父親のこと、知らなかったんだけど、」


「うん。」


「お金持ちの人だったらしくて…」


「え、じゃあ、その、お父さんからプレゼントされたってこと?」


千智は迷いながら頷いた。間違ってはいない。


「じゃあ、林さんの彼氏じゃないかって、噂されてる人は?」


「…お父さんの会社の人。」


「なんだ、そっかぁ~。」


西村は脱力するようにベンチに深くもたれかかった。


「でも、すごいね。そんなことあるんだな~。」


西村は手にしていたアイスコーヒーのストローを咥えながら、何か考え込んでいた。


「…それで、今日の午後は、親戚の人に会う予定だから、バイトのシフトは変われない。」


「あ!バイト!」


西村は、はっとした顔をして、立ち上がった。


昼休みのうちに大学を出ないと、午後のシフトに間に合わないからだろう。


「行くわ、じゃあまた!」


「あの、スマホのこと、ありがとう!」


慌てて去っていく後ろ姿に声をかけると、西村は少し振り向きながら手を振ってくれた。


西村が見えなくなるまで見送ってから、千智は着信履歴をタップした。


月島には2コールでつながった。






月島の提案で、千智は必要なものを住んでいたアパートから、マンションに移すことになった。

 

教科書や、お気に入りのマグカップ、着替えなどを箱につめる。


調理器具や数点しかない食器は、令嬢にはふさわしくないかもしれなかったが、苦労をともにしてきた品々を、千智は手放したくなかった。


もともと荷物は少ないため、部屋に残ったのは、冷蔵庫と寝具、座卓だけだった。


それらは月島が手配した回収業者に引き取られてゆき、部屋は空っぽになった。


がらんとした部屋を見て、千智ははじめてこの部屋に来た日を思い出した。


地方からひとり大都会にでて、圧倒されていた自分に、この小さな部屋は拠り所をくれた。


「いままで、ありがとう。」


千智は部屋にむかってつぶやいた。


月島と運転手の篠山に手伝ってもらい、荷物を車に積み込むと、千智は最後に小さな木の箱を抱えてアパートを出た。


「そちらは?」


篠山に訊ねられ、千智は答えた。


「母の遺骨です。」


遺骨は納骨堂に収めるお金もなく、ずっと手元に置いていた。


篠山は気の毒そうな顔をし、月島を見た。


「申し訳ありませんが、副会長との約束まで、あまり時間がありません。篠山さんにお願いしましょう。」


千智は迷った。母親の遺骨を荷物のように運んでほしくはなかった。


できれば、自分の手で運びたい。


千智が言いよどんでいると、篠山は千智の目をしっかり見て言った。


「丁寧にお運びします。」


千智は篠山の言葉にうなずき、遺骨を預けると、月島が用意したタクシーに乗り込んだ。

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