第2話 ペントハウス
「ふたりきりで、話したいことがあるんだけど。」
アルバイトを終えて更衣室から出た千智は、新しく配属された男性マネージャーから食事に誘われた。
“またか…”
千智は内心ため息をつきながら、丁重に誘いを断った。
これまで、千智は何度もアルバイトを変えた。
家庭教師、塾講師、コールセンター。
どのアルバイトでも生徒の父親や上司に交際を迫られ、断ると同時にクビになった。
最初、彼らは天涯孤独で生活が苦しい千智を心配するふりをし、様々な支援を申し出る。
そしてその対価に、関係をせまるのだ。
守ってくれる人のいない千智を、脅すこともあった。
立場の弱い女性は、いつだって支配欲をもった男性の餌食だ。
その女性が、美貌の場合は特に。
千智は美しい顔をしていた。
眉、目、鼻筋、唇、輪郭、どれをとっても美しく、整った顔をしている。
しかし、だからこそ、美しいという印象以外、個性のない顔でもあった。
誰も、千智の素顔を正確に思い出すことができなかった。
“あの女優に似ている、いや、この女優に似ているかも。”
千智を語るとき、人は女優の名を幾人も口にした。
それには、語る人それぞれの願望が、載せられているようでもあった。
千智はどの女優にも似ていたし、どの女優ともそっくりではなかった。
人の顔をたくさん集めて、平均をとると、美しい顔になるという。
千智はまさに、そんな顔をしていた。
佐伯璃子と似ていると言われたとき、千智は驚かなかった。
ただ少し、似ているだけだと思った。
DNA鑑定を受けることにも乗り気ではなく、期待している月島や佐伯家を、がっかりさせるだろうと思っていた。
鑑定を受けたのは、ただ真実をはっきりさせるためだった。
そう、それだけだった。
それなのに…
「お待ちしていました、璃子様。」
カフェで話をしてから1週間後、約束の時間に大学の正門前に現れた月島は、千智を恭しくエスコートし、高級車の扉を開いて後部座席へと促した。
「ま、待ってください。」
今日はDNA鑑定の結果を受け取る約束だった。
結果は先に確認してよいと、月島に伝えていた。
淡々とした月島の様子から、予想通り、自分は璃子ではなかったのだと察していた。
親子関係を否定する報告書を受け取り、別れるだけだと思っていた。
しかし、月島は千智を璃子と呼んだ。
千智は混乱し、抵抗した。
「わ、私は林千智です。そんな、まさか…」
「お入りください。車を走らせながら、お話しましょう。ここは人目も多い。」
高級車で現れた俳優のように美しい男が、学内で密かに有名な美人をエスコートしている。
注目を集めないはずがなかった。
千智は仕方なく、月島に促されるまま車に乗った。
「鑑定結果報告書です。」
月島に手渡された封筒を開くと、書類にはDNA型式親子鑑定の結果が記されていた。
生物学上の親子である可能性は99.9%。
“まさか、そんな。あの、佐伯ホールディングスの会長が、私の実の父親だったなんて。”
驚きと興奮で身体が熱くなり、様々な疑問が胸をよぎる。
母はなぜ、頑なに父の話をしなかったのか。
母と父はどういった関係だったのか。
そして、本当に自分は、佐伯璃子だろうか。
璃子は、佐伯ホールディングス会長の佐伯理人と、その妻美由紀の長女だ。
自分が璃子なのであれば、千智を育ててくれた母親の美香は、千智と血のつながりがないことになる。
璃子は5歳で失踪したという。
千智は5歳のときのことを、思い出そうとした。
母の死以来、蓋をしていた古い記憶を、少しずつ呼び起こす。
アパートの狭く暗い部屋、枯れたまま放置されていた植木鉢、母の帰りをひとりで待っていた自分。
千智が沈黙していると、月島が口を開いた。
「先ほどは、失礼しました。突然のことで、戸惑われるのは当然です。いますぐ、佐伯家の一員として、振るまわれることは難しいでしょう。璃子様の準備が整うよう、可能な限りお手伝いさせて頂きます。」
バックミラー越しの美しい微笑にドキリとする。
この人の笑顔は、心臓に悪い。
「あの…」
「はい。」
「できれば、しばらくは、千智と呼んで頂けませんか。」
「わかりました。千智様。」
「“さま”と呼ばれるのは、ちょっと…」
月島は少し考え、答えた。
「では、“千智さん”とお呼びします。」
15分ほど車を走らせると、月島は大きなマンションの地下駐車場に車を止め、最上階の部屋に千智を案内した。
「ここは、佐伯家が所有する不動産のひとつです。このお部屋はこれから、千智さんのものになりますので、自由にお使いください。先ほどお渡ししたスマートフォンが、ルームキーになります。」
連絡用だと渡されたスマートフォンは、人気メーカーの最新機種だった。
明らかに高そうなセンスのいい家具が置かれた部屋は、千智が住んでいるアパートがまるまる一棟入りそうな広さだ。
「今お住まいの部屋は、防犯面で不安がありますので、引き払って頂いた方がよろしいと思います。差し支えなければ、私の方で手続きさせていただきます。荷物は後日、日取りを決めて運ばせましょう。」
月島は部屋を案内しながら続けた。
「最低限の家具や生活用品は、予め用意させて頂きました。ご趣味に合わなければ、買い替えて頂いて大丈夫です。その他、必要なものは自由に購入ください。」
渡されたのは佐伯璃子名義のブラックカードだった。
「運転免許をお持ちでないようなので、お出かけの際はこちらの番号におかけください。運転手がお迎えにあがります。また、先ほどの車も千智さんのものですので、キーをお渡しします。」
突然与えられた最新機種のスマートフォン、マンションの最上階、限度額なしのクレジットカード、高級車…、ただただ圧倒されて言葉が出ない。
千智は月島の言葉に繰り返しうなずくことしかできなかった。
マンションの設備は豪華としか言いようがなかった。
部屋自体が防音なので、ペットを飼うことも楽器の演奏も問題ないらしい。
千智が一番驚いたのは窓だった。
スイッチ一つで窓の色が変わり、カーテンがなくても遮光することができる。
電気を流すことで、色を切り替える仕組みになっているらしい。
ガラス張りのバスルームには内心焦ったが、同じ仕組みでスモークガラスになることを知り、安堵した。
照明はもちろん調光可能で、七色に変化させることもできるらしい。使うことはなさそうだけれど。
衣類やバスタオル、シーツなどのリネンは玄関のクリーニングボックスに入れておけば、24時間以内にクリーニングされて返却されるらしい。
お金持ちは自分で洗濯などしないようだ。
一応ドラム式の洗濯乾燥機もあった。
ゴミは24時間廊下のダストシュートに出してよいということだった。
清掃のため、3日に一度、ハウスキーパーが訪れるらしい。
お掃除ロボットもいた。
「お口に合いますか?」
「はい、とても美味しいです!」
マンションの説明を聞き終えると、すっかり夕食の時間になっていた。
月島は食事に誘ってくれたが、千智は自分の服装が気になった。
Tシャツにデニム、スニーカー。
月島が入りそうな高級なお店にはふさわしくないだろう。
千智が返事に迷っていると、外食に気乗りがしないなら、と、月島がキッチンに立った。
千智は自分が作る、と言いかけたが、庶民的な料理が佐伯ホールディングス副会長秘書の口に合うかどうか不安になり、結局、月島の言葉に甘えることにした。
しかし、机に並んだのは、意外にも、シンプルな家庭料理ばかりだった。
「あの、意外でした。てっき月島さんは、聞いたこともない材料をたくさん使って、見たこともないおしゃれなお料理をされるのかと…」
食事をして、緊張も解けてきた千智は、つい本音をこぼしたが、月島は愉快そうに声をあげて笑った。
少年のような、無邪気な笑顔だった。
「テレビにでている、料理タレントみたいに、ですか?」
「はい、あのタレントの人みたいに。」
他愛もない会話がつづき、千智は自然と笑顔になっている自分に気がついた。
誰かと笑いながら、温かい食事をするのは久しぶりだった。
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